生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

鈴木屋敷 ~海南市藤白~

 藤白神社の境内に「鈴木屋敷」というのがある。全国の「鈴木姓」の総本家といい、ルーツブームに乗って、全国から大勢の人が訪れるようになった。

 

  祖先は、饒速日命(にぎはや ひの みこと)の孫、千翁命(ち おきなの みこと)神武東征の際、天皇に稲を献じたので「穂積」の姓を賜わったが、稲を積み重ねたのを「すずき」といったところから「鈴木」姓になったという。
 異説として、ナギの木に鈴を付けて馬印としたためというのもある。

 

 熊野古道に近い屋敷は、室町時代の様式を伝え、庭は平安期に流行した「曲水泉」。全国でわずか三力所だけという、貴重な庭園だ。

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

復元作業中の鈴木屋敷周辺(2015)
  • 本文中「ルーツブーム」とは、アメリカのテレビドラマ「ルーツ(Roots)」をきっかけにして、自分自身と家族の歴史を知ろうとする取り組みが世界的なブームとなったことを指す。
  • 「ルーツ」はアレックス・ヘイリー原作の小説「ルーツ(Roots: The Saga of an American Family)」をもとにアメリカABCが1977年に制作、放送したテレビドラマで、全8話の平均視聴率が44.9%という空前のヒット作となった。同年に日本でも放送され、平均視聴率23.4%を獲得している。内容は、作者が自らの先祖の歴史を探ったもので、西アフリカのガンビアで生まれた黒人少年クンタ・キンテが強制的にアメリカへ連行されたことに始まる親子3代の黒人奴隷の物語を描いたもの。これ以降、世界中で自分の先祖への興味が急速に高まることとなった。「自分のルーツを探る」という言葉は、このドラマをきっかけとして一般に定着したものである。
    ルーツ (テレビドラマ) - Wikipedia

 

  • 鈴木」姓は、平安時代前期に熊野速玉大社(くまの はやたま たいしゃ)の一禰宜を務めた穂積国興の次男(三男との説もある)鈴木基行(すずき もとゆき、865~926)を名乗ったのがはじまりとされる。また、基行には榎本真俊宇井基成という兄がいて、それぞれ榎本氏、宇井氏という有力な家系を興したとの伝承があり、鈴木氏、榎本氏、宇井氏の三氏をあわせて「熊野三党」と呼ぶ。
    藤白鈴木氏 - Wikipedia

 

  • 熊野三党の家系は熊野速玉大社の神職を代々務めたが、中でも鈴木氏は太平洋の海上交通を利用して東日本を中心に全国へ熊野信仰を広めていった。この際、鈴木氏の一族が神官として各地に移住したことが、全国に鈴木姓が定着する大きなきっかけとなった。

 

  • 12世紀頃、境内地に藤代王子(ふじしろおうじ)を擁する白神社(ふじしろじんじゃ)の神官として鈴木氏の宗家が移り住んで以降、同神社の神職は代々鈴木氏が務めることとなった。
  • 藤代王子にはかつて熊野詣の「一の鳥居」があり、ここから聖域が始まると考えられていたことから、熊野古道にある王子社熊野古道沿いに設けられた休憩所・遥拝所)の中でも特に格式の高い「五体王子」に位置付けられており、その神職は重要な役割を担うものであった(他の五体王子は切目王子・稲葉根王子・滝尻王子・発心門王子とするのが一般的)

 

  • 昭和17年(1942)、第122代当主鈴木三郎重吉氏が急死し、子がいなかったため鈴木氏宗家の家系は断絶となった。

 

藤白の鈴木氏
 全国で最も多い姓氏に数えられている鈴木氏のルーツをたずねると、たいてい紀州熊野にたどりつき、なかでも藤白の鈴木氏の流れをくむことが多いと言われています。
 鈴木氏は、熊野旧三家の一つで、勝浦湾を根拠地とした豪族でした。

 その始祖は、神武天皇東征軍が熊野へ立ち寄られたとき、稲を献じて飼料に供したので、天皇から穂積(ほずみ)姓をたまわったという話が伝わっています。穂積すなわち稲叢(いなむら)のことを、紀州ではススキと言うところから鈴木氏を名のるようになったと言われています。
 熊野の鈴木氏が藤白へ移り住んだのは、平安末期ごろ、上皇法皇の熊野参詣が盛んとなった頃と推定されます。
 熊野御幸上皇法皇や宮廷人を藤白で出迎え、熊野三山(本宮・新宮・那智への案内役をつとめてきたのでしょう。藤白の地に熊野一の鳥居がもうけられていたのも、こうした事情によるものと考えられます。
 また、全国津々浦々へ熊野信仰の普及につとめる中心的な役割を果たしたのも鈴木氏でした。
 熊野信仰の普及活動のため各地に赴いた鈴木氏一族が、熊野参詣がかつてのような盛況を失った後も、赴任先で定住したことが、こんにち藤白出身の鈴木氏が全国いたるところで居住されている所以でもあります。
 藤白の鈴木氏で有名なのは、鈴木三郎重家亀井六郎重清の兄弟です。重家、重清らが幼少の頃、牛若丸(源義経が熊野往還には必ず藤白の鈴木邸に滞在し、重家、重清らと山野に遊んだと伝わっており、義経弓立の松の古木もありました。
 義経屋島の戦いを勝利に導いたのは、熊野水軍の力にあずかるところが大きく、この水軍を源氏方へ引き入れたのは鈴木兄弟であったと言われ、牛若丸との話は単なる伝説にとどまるものではありません。
 この兄弟は、義経の家来として最後まで戦い、文治五年(1189)四月末)、ついに衣川の戦いで、最期を遂げたと伝えられています。
 浄土寺境内に立つ石塔は、義経と鈴木兄弟の墓だと言われます。
   文治五年己酉四月廿八日
   僧阿弥陀仏  鈴木三郎重家 
   義阿弥陀仏  伊予守源義経 
   珠阿弥陀仏  亀井六郎重清 
 藤白王子社は、熊野三山の遙拝所として、家津御子(けつみこ)(本宮)熊野速玉(はやたま)(新宮)熊野夫須美(ふすみ)那智の三神をまつるほか、鈴木氏の始祖という饒速日命(にぎ はやひの みこと)を祭神としています。熊野九十九王子社のうちでも特に格式が高く、御幸の途中、歌会を催したり、相撲を観覧されたことが記録に残っています。
 江戸初期からは、鈴木氏は王子社の神官を離れ、地士(じし)にとどまりましたが、百二十二代目鈴木三郎重吉が昭和十七年に逝去され、藤白住の鈴木家が絶えたのは惜しまれます。
鈴木屋敷 | 海南観光ナビ

 

  • 上記リーフレットに登場する鈴木三郎重家亀井六郎重清の兄弟のうち兄である鈴木重家については、南北朝時代から室町時代初期に成立したとされる軍記物「義経記」における衣川の戦いの場面に登場しているものの、それより若干前に成立したと考えられる「吾妻鏡」や「平家物語」にはほとんど登場していない。これについて、内田源氏は「奈良教育大学国文 : 研究と教育 37巻(奈良教育大学国文学会   2014)」に掲載された紀要論文「鈴木重家物語の担い手とその展開-『義経記』成立考序説-」において次のように述べており、「義経記」が成立した時期には、歴史書や軍記物語とは別に成立した謡曲幸若舞(こうわかぶきょく 鼓を伴奏に謡い舞う語り物芸能の一種)の中で鈴木重家の物語が既に一般化しており、こうした物語を「義経記」が取り込んだものであろうとしている。また、この鈴木重家の物語は、熊野信仰を背景として鈴木家によって全国に流布されたものであろうとの見解を示している。

(略)

 次の表は、ここまでに確認してきた鈴木重家語りを並べて浮かび上がった、鈴木重家物語の物語内容とその流れである。

義経が幼少期に鈴木の館を訪れ、主従関係を築いた。
 〈「紀伊国名所図会」〉

②平家追討軍の一人として義経と共に戦う
 〈「平家物語」〉

③都にて義経と別れるが、その後また義経が落ちて行った奥州に向かうために母を説得し、涙の別れをする。
 〈「語鈴木」、「聞書 鈴木三郎重家物語」〉

④高館へ向かう途次に追手と戦い、生け捕られる。
 〈「追熊鈴木」、「異本義経記」〉

⑤生け捕られて鎌倉へ連行され、そこで頼朝と対話をした後、隙を見て逃げて再び義経のもとへと向かう。
 〈「語鈴木」、「生捕鈴木」、「異本義経記」、「聞書 鈴木三郎重家物語」〉

⑥高館へ辿り着く。義経から鎧を賜り、鈴木家に代々伝わる腹巻(筆者注:胴体を守るための軽量な防具)を弟の亀井重清に譲り渡す。
 〈「高館」〉

衣川合戦において自害を果たす。
 〈『義経記』、「高館」〉

 

 「義経記」だけでは突然現れ、すぐさま死んでいく不可解な男が描かれる。しかし、それはあくまで物語の一部だった。「義経記」の外側では、優れた義経郎等の一人として、苦難や活躍を語る一つの物語が存在したのである。

(中略)

 三者は共通して、鈴木重家の活躍は鈴木家によって語られたものであり、ひいては熊野信仰を広める為の語りであると指摘する。この点に関しては筆者も同意見である。鈴木重家義経との強い絆を持って奥州までわざわざ訪れる、義経最期に際して兄弟ともに自害を果たす、という内容の物語は、鈴木家伝承として鈴木家に代々語られて不思議ではない。また、熊野を支配する豪族である鈴木家の武勇を語ることは、熊野信仰圏に属する者たちにとっても親しみやすいものとなるに違いない。そうしたことから、「熊野の宣伝」として鈴木重家物語が存在し、角川源義佐藤陸が言うように、「平泉にいる天台熊野修験」、「熊野山伏」によって語られたという点も間違いではないだろう。

(以下略)

奈良教育大学学術リポジトリ

 

  • 徳川家康紀州鈴木家に連なる家系であるとの説もある。
    この説によれば、徳川家康(旧名は松平元信、松平元康)を生んだ三河松平氏は、徳阿弥(とくあみ)と称する時宗の僧が三河国加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市松平町の豪族・松平信重(のぶしげ)に婿入りし、後に松平親氏(ちかうじ)と名乗ったことに始まるとされているが、この松平信重の先祖が紀州熊野の鈴木氏であるとする。これは、「松平氏由緒書※1」と呼ばれる文書にあるもので、これによれば、信重徳阿弥に対して自らの出自について「先祖は在原(ありわら/ありはら)※2、もしくは紀州熊野の鈴木氏と思われるが不詳」と語ったと伝えられている。この記述については、「松平氏発祥譚と松平郷(宇野鎮夫 「教育愛知 昭和59年5月号」愛知県教育委員会 1984)」に次のように紹介されている。
    ※1 明治14年(1881)に松平村(現在の愛知県豊田市松平町)から愛知県東加茂郡役所へ提出された「松平村誌」の稿本に付載されていた物語で、題名が付けられていないため通称「松平氏由緒書」と呼ばれている。本稿を執筆した宇野氏によれば、この由緒書の成立年代は不明であるが、徳川家成立後に記された各種の歴史書の記述内容の影響が見られないことから、三河松平氏の成立に関わる伝承の原型ではないかとみている。
    ※2 歌人在原業平(ありわらの なりひら)らで知られる氏族で、平城天皇皇子の阿保親王高岳親王を祖とする。

信重おさへて仰せ候ようは、
恥ずかしけれども惣じてそれがしと申を、
委敷(くわしき)由来を語り申すべし
よくよく聞かせ給うべし
先祖と申候は
在原の由来とも申也。
又一つには紀州熊野の鈴木の筋とも申候。
(くわしく)は存じず也。
但し只いまに至りては
源家不詳と申候也 

※筆者注 読みやすさを考慮して漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためた。

教育愛知 32(2)(372) - 国立国会図書館デジタルコレクション(利用者登録で閲覧可能)

 

  • 鈴木氏の始祖である穂積氏の来歴について、前田晴人氏は「物部氏関係伝承の再検討(「纒向学研究第5号」桜井市纒向学研究センター 2017)」において、古事記の「神武天皇」段に該当の記述があることを紹介している。

 そこで古事記』神武段にみえる伝記を引用してみよう。

 

故爾に邇芸速日命参赴きて、
天つ神の御子(筆者注:神武天皇のこと)に白ししく、

天つ神の御子天降り坐しつと聞けり。故、追ひて参降り来つ

とまをして、即ち天津瑞を献りて仕へ奉りき。
故、邇芸速日命
登美毘古が妹、登美夜毘売を娶して生める子、宇摩志麻遅命
此は物部連穂積臣采女の祖なり。

 

 物部・穂積・采女三氏らの始祖とされる邇芸速日命(ニギハヤヒ)は、天つ神の御子である神武天皇の後を追って天降り、天津瑞を献上して天皇に仕えたとする。
纒向学研究センター研究紀要『纒向学研究』/桜井市ホームページ

 

牛鼻神社 – うしはなじんじゃ -

由 緒
 当社の創建は、今を去る5千年と言い伝えられ 紀州地方最古と言われる。江戸時代役牛による耕作が始まった頃より、牛の守り神として、字名にちなんで牛鼻と呼ばれるようになった。また、神武天皇東征の折に牛の鼻を繋いだとも伝えられる。日本記に日く、景行天皇重ねて南方の悪神を征し給う時、三輪崎荒坂山に軍立し給い、御陣を秋津野に召されて日久しく御粮尽きける時に、熊野村の千翁命稲千束奉りて奉救す依って御陣堅固になり悪神共無為に治まる也。天皇御感のあまり千翁命姓を給い穂積と号す。命に三子あり、榎本鈴木宇井日本武尊熊野村に御鎮座の時、大成榎本の元に檀を築き鈴をもって奉迎するに、右の功を称して三子の屋号とするという。故に本社の祭神は熊野三苗はじめ熊野地方一帯の祖神を祀るところ也。
三重県神社庁教化委員会 » 牛鼻神社 

  

  • 泉州堺出身の医師で安永元年(1772年)に40歳で古座に移住した玉川玄龍(本名は武内養浩)は、博覧強記で森羅万象に通じていたと言われ、多くの書を著したとされる(明治時代の火災で蔵書はすべて焼失した)。現在はわずかに地誌「熊野巡覧記(寛政6年(1794)成立)」の写本が残るのみであるが、この書の中に鈴木家の由緒に関する考察が記されているので、これを引用する。

鈴木由緒書  

本国紀伊 生国紀伊 本姓穂積鈴木氏
人皇第一 神武天皇 南方熊野の賊虜を征伐し給う時
三輪崎の荒坂山に軍立し給う
天皇御陣を秋津野に召るる事日久 
荒坂山は三輪崎浜と広津野との間に在
今の荒谷山と云 秋津野は佐野村にあり
既に御粒(食糧ののこと)尽て危に臨み玉う
(ここ)に天櫛 饒速日命 と申奉るは
天照大神の太子 天の忍穂耳尊の御子也
天照大神の勅命を玉い 
十種の瑞宝を持て天磐船にて天降り玉う
此 饒速日尊に二子御坐す
兄を 天香語山(あめのかぐやま) 一名 高倉下命(たかくらじのみこと)と申 
弟を 可美真手の命(うましまでのみこと)と言
香語山命 父と共に紀伊国熊野邑今新宮の本名なりに降って
庫蔵を建て十種の瑞宝を安置し玉う
新宮神倉是也
香語山の命 武帝の御味方に参じ
稲千束を供奉の軍兵を救い奉り玉う
因茲(ますます)官軍堅固なり
今に稲千束を奉れる地名を千束と呼て新宮の入口の地名に残れり
是より賊虜ども悉(ことごとく)皇命に従い奉りて
南方無為に治るなり
従夫 武帝大和国の大敵長随彦を伐て天下を平均し
大和国橿原の宮にて天下を治めし
人皇の始 我朝の太祖也
天皇御威の余り 天香語山の命に千翁の命と名を改め賜り
姓を穂積と賜う
此時 天神七代地神五代 合て十二社の神廟を熊野邑に立て
千翁の命をして是を祭らしむ
是今 新宮の神社是也
千翁命に王子有 宇井 鈴木 亀甲 三苗と分
一説に 亀甲 を除き 榎本を 加え三苗とす
皆 穂積姓より出たり 千翁命は熊野地の正三苗の祖神たり
則 十二社の神司と成 今新宮川向いに牛が鼻大明神と祭れり
今新宮本社より八町川向いなり 毎年二月十日祭礼あり
又 新宮巽之方に飛鳥の社
是亦 天香語山命 を祭る所なれば牛鼻同神也 
千翁命は一説に建祇命の兄にて古代より熊野邑の神司なり
牛鼻明神と崇て熊野人の氏神なり
建祇命は加茂氏の祖神なり
千翁命御事は熊野地主神なれば
新宮 本宮 那智 皆此社を置も宣なる哉
殊更 千翁命 の弟 可美真手命 は
武帝の御時執政の大臣とぞ 物部氏の祖なれば
今更附言に及ばず 
旧史に載て分明なり
人皇十二代景行天皇の御子 日本武尊

重て勅命を受 南方賊徒を征伐し玉う
熊野邑に御陣を召れし時 穂積の臣御迎に参り
大なる榎木の下に仮殿を築て奉迎かうに
を以て奉伝と言伝う
是より 鈴木 宇井 榎本 を以て家号とす
千翁の命 稲千束を積て奉りしより以来
鈴木氏の子孫 稲の丸を以て紋とす
鈴木氏屋敷は熊野大勝浦に在り
家舗内一町四方 今猶鈴木氏家地とし累代居住す
寛永十九年十二月御書付今に所持す
宅地の内に八幡宮の社 鈴木氏より勧請する所なり
正徳元年公儀より御改に付 書付指上候なり
勝浦鈴木家は 鈴木庄司重政 と称し
穂積氏の嫡流八庄司の旗頭として熊野に於て並なし
代々繁栄して 紀州藤白庄鈴木氏 此家より分る
治承四年五月熊野別当湛増 素より平家の恩顧を厚く蒙りたれば
新宮十郎義盛 高倉宮の令旨を持て 熊野人を催促すと聞て
急ぎ千余騎を引率して新宮へ押寄と聞て
庄司重政を始として 新宮の人に 宇井 水谷 亀甲
鳥井法眼 高坊法眼 那智執行法眼 以下一千五百余騎
湛増と新宮三輪崎との間にて三日の間合戦し
湛増打負手を負 本宮へ逃帰ると古書に見ゆ
重政より十余代系図焼失に付 時代追て可考
(以下略)
※筆者注:本文は、個人サイト「百姓生活と素人の郷土誌」中、「熊野古道関係の古書等の資料」に掲載されているものを参考にさせていただいた。
熊野巡覧記

※筆者注:掲載にあたっては、読みやすさを考慮して漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためるとともに、改行、空白等を追加した。

  •  上記引用文に従えば、鈴木氏の祖である千翁命高倉下命と同一人物であることになる。高倉下命は、神武天皇が熊野で悪神の毒気により倒れた際に、御雷から託された霊剣「布都御魂」を神武に届けて窮地を救った人物として知られている。
    高倉下 - Wikipedia

 

  • 昭和55年(1980)、当時大人気であったNHK鈴木健二アナウンサーを代表に「全国鈴木さん初詣で」と題して、全国の鈴木姓の人だけを集めて、天王寺駅から海南駅まで国鉄の特別列車に乗車して藤白神社に参詣した様子がNHKで全国放映された。これにより、藤白神社の神官が全国の鈴木姓の宗家であったことが広く知られるようになった。

 

  • 平成8年(1996)に開催された和歌山県主催の「ふるさと誕生日イベントin海南市」では、ゲストとして鈴木蘭々が来場し、ミニライブを開催した。当時、鈴木蘭々はチョーヤ、日本リーバ、スズキ、ローソン、学生援護会、森永製菓、太田胃散など各社のコマーシャルに出演しており、「新CMの女王」とも呼ばれていたが、主催スタッフが「鈴木姓発祥の地」であることにこだわってスケジュール調整に奔走したという。

 

  • 平成10年(1998)、秋田県羽後町にある源義経の家臣、鈴木三郎重家の家系を継ぐとされる鈴木家で「第一回全国鈴木サミット」が開催された。その後、このサミットは平成11年(1999)の第二回が海南市、平成13年(2001)の第三回が石川県鳥越村、平成14年(2002)の第四回と平成16年(2004)の第五回が海南市、平成18年(2006)の第六回が熊本県天草市、平成25年(2013)の第七回が海南市でそれぞれ開催された。このうち、第七回の「鈴木サミット&フォーラム」では、スズキ自動車鈴木修会長兼社長(当時)が基調講演を行った。
    鈴木サミットの経過

 

  • 本文執筆時に現存していた建物は江戸時代後期の建築と考えられ、当時の姿は江戸時代の地誌書「紀伊国名所図会」に詳しく描かれているが、平成後期には老朽化が著しく崩壊寸前となっていた。
  • 平成27年(2015)に鈴木屋敷を含む「藤白王子跡」が国の史跡熊野参詣道紀伊路)に指定されたことから、藤白神社・海南商工会議所を中心として構成する「鈴木屋敷復元の会」が主体となり、国・県・市の補助を受けて鈴木屋敷の再生・復元にむけた取り組みが具体化した。関東地方を中心とする鈴木姓の同族会「関東藤白鈴木会」の協力や、海南市の呼びかけによるクラウドファンディングなども組み合わせて広く支援を募っている。同会のWebサイトでは令和3年(2021)度末を目標に復元作業に取り組んでいるとのことであるが、やや事業は遅れているようで、同サイトに掲載されているパンフレットによれば現在の復元完了予定は令和5年3月となっている。
    鈴木屋敷復元の会|鈴木姓発祥の地、和歌山県海南市にある「鈴木屋敷」の2021年度復元完成に向けて活動しています。
  • 上記サイトに掲載されているパンフレットによると、鈴木屋敷の現況は次のとおり。

鈴木屋敷の現状

 鈴木屋敷の敷地は、東西約65m、南北約35mの長方形で、東側に正面入口の跡があります。敷地中央部には、江戸時代に建てられた座敷棟とその北方の北北棟が残っています。座敷棟と北北棟の間は、かつ ては玄関棟と北棟で繋がっていました。敷地の東側には前庭、西側には室町時代後期の池泉庭園があります。

前庭、池泉庭園(室町後期)

  前庭は、東の門から正面玄関までは飛石で繋がり、玄関付近には「義経弓掛松」が植えられ、井戸や池もあります。
 池泉庭園は、屋敷の西側に設けられ、昭和52年の復元整備後の姿が現在に伝わり、地割や築山等室町期の様相を示しています。近年では、護岸の松くいの腐朽や庭木の過生長などが課題になっています。

現存建造物遺構(座敷棟、北北棟、土塀)
 現存座敷棟及び北北棟は、建築様式や部材の風食状況などから少なくとも江戸時代の後期には存在していたものと考えられます。とくに座敷棟は、当初材がよく保存され、上質な材料やすぐれた細部意匠等は今もみることができます。近年、座敷棟の破損が各所に見られ、屋根も崩落し、大変危険な状態にあったので、建物の外壁の一部を現地に残して、保存修理のため解体工事を実施し、部材は現地の保存小屋に納めました。また、北北棟は後世の改変部分を取り除いて現地保存としました。
 土塀は当地の伝統的構法によるもので、現在では屋根と本体の大半が崩壊しています。 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。