生石高原の麓から

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筆捨松 ~海南市藤白~

 藤白坂に「おごり」を戒めた「筆捨松」の話が残っている。

 平安初期、風景や風俗画に新様式を開いた官廷絵師、巨勢金岡(こせ の かなおか)が、熊野詣での途中、峠の技ぶりのよい松に腰をかけ、写生をしていた。そこへ一人の童が出てきて、「どちらが上手か、競争しよう」と持ちかけた。

 

  ところが、どちらもうまくて甲乙がつかない。そこで童は、描いた鳥を飛び立たせると、金岡も鶯を飛び立たせた。さらに童が手をたたくと、鳥は絵に戻ったが鶯は帰ってこない。金岡はくやしくなり、絵筆を松の根元へ投げ捨ててしまった。その童こそ、熊野権現の化身で、おごった金岡を戒めるためにやってきたのだという。

 

 この話は、現代にも通じよう。そのせいか、土地の人たちは、その教訓をいつまでも忘れまいと、近くに石碑を建て、二代目の松を植えるなど、大切にしている。

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紀伊国名所図会二編五之巻 藤白峠御所之芝より和歌浦、加太、友が島、
阿波、鳴戸までの眺望 (国立国会図書館デジタルコレクション)

  • 巨勢金岡は、平安時代前期の貴族・宮廷画家(生没年不詳)。後述の金岡神社の由緒によれば、清和天皇(在位858~876)、陽成天皇(在位876~884)、宇田天皇(在位887~897)、醍醐天皇(在位897~930)に仕え、大納言の位を得て宮中で障子、屏風等に画を描いたとされる。
  • 当時の絵画は「唐絵」と呼ばれて多くが中国(唐)から輸入されたものであり、国内で描かれる場合でも中国の故事や人物などを主題にすることが一般的であったが、巨勢金岡は主に日本の故事・人物・事物・風景等を主題とした絵画を描いた。この画風は当時「新様」と評されてもてはやされ、後に「大和絵」と呼ばれる様式の始祖と位置付けられるようになった。
  • 菅原道真が記した「菅家文草」には、貞観年間(859~877)に道真が金岡に対して神泉苑平安京大内裏に隣接して造営された天皇のための庭園)の絵を請うたとの記載がある。このほか、御所の障子漢詩人の肖像を描いた(日本紀略)、唐本を基に大学寮(官僚育成機関)に先聖先師九哲孔子と10人の高弟)の像を描いた(江家次第・台記)、藤原基経源能有50歳を祝う屏風絵を描いた(菅家文草)、などの記録が残されているが、金岡が描いた作品そのものは現存していない。
  • 鎌倉時代に編纂された説話集「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」の巻第11、384段には、巨勢金岡が描いたと伝えられる清涼殿の障子絵の馬が夜な夜な障子から抜け出て萩の戸の萩を食ったので、当時の帝が繋いだ姿に書き改めさせたところ、馬は障子から抜け出さなくなった、との話がある。また、次の385段には、仁和寺にある寛平法皇の御在所にある巨勢金岡の馬の絵がやはり抜け出して近隣の田を荒らすので、絵に書かれた馬の目を彫ってつぶしたところ田が荒らされることは無くなったとの話がある。本文にある「絵に描いた鳥が飛び出す」というエピソードは、こうした話を下敷きにしたものと考えられる。
  • 江戸時代後期に曲亭馬琴が書いた伝奇風小説「南総里見八犬伝」では、八犬士の一人である犬江親兵衛のエピソードの中で、巨瀬金岡が描いたという「瞳無しの虎」の絵に管領細河政元が瞳を描かせたところ虎が絵から飛び出して人々を喰らうようになったため、親兵衛が虎の瞳を射て元の絵に戻したという話が描かれている。
  • 巨勢金岡をはじめとする巨勢氏の始祖は武内宿禰(たけのうちの すくね)の次男である許勢小柄宿禰(こせの おからの すくね)であるとされる。武内宿禰景行成務仲哀応神仁徳の5代の天皇に仕えたという伝説上の忠臣で、巨勢氏のほか、紀氏平群葛城氏蘇我氏など有力豪族の祖とされ、和歌山市松原武内神社境内に宿禰が産湯を使ったという「武内宿禰誕生井」がある。
  • 大阪府堺市にある金岡神社は、祭神として住吉大神(すみよしのおおかみ)、素盞嗚命(すさのおのみこと)、大山咋命(おおやまくいのかみ)と並んで巨勢金岡が祀られている。実在の人物である巨勢金岡を祭神とする神社は全国唯一と言われる。由緒によれば、同社の創建は仁和年間(885~889)で、当時の祭神は住吉大神のみであったが、後に素盞嗚命大山咋命を加え、一条天皇の時(986~1011)に巨勢金岡卿を合祀し金岡神社と称することとなったとされる。
  • 実在の人物が登場する数少ない狂言の一つに「金岡」がある。これは、巨勢金岡が宮中で出会った美女に恋心を抱いて物狂いとなっているところに妻が現れて、「女が美しいのは化粧のおかげだから、私の顔を得意の絵筆で彩ってみせよ」と迫ったため、金岡が妻の顔に色を塗り始めたものの、却って奇妙な顔になってしまう・・・、という滑稽譚である。
  • 筆捨松について、「熊野参詣道王子社及び関連文化財学術調査報告書(2012和歌山県教育委員会)では次のように記載されている。

藤白坂を登り、峠に近いところに、大きな松の木があり、ここに「筆捨松遺跡 明治四十二年内海村保光會」の石碑が立っている。この石碑について海草郡の『内海村』(明治 42 年)に「内海村保光會ハ村ノ變遷沿革名勝古蹟等ヲ明ラカニシ且舊蹟ノ煙滅ヲ防カンタメ内海村誌ヲ發行シ建碑四基永ク其ノ保存ヲ圖ルヲ目的トス」と記されている。

筆捨松の伝承は、平安時代の初め、天下一といわれた宮廷の絵師・巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野権現の化身である童子との絵の書きくらべをして負け、くやしさのあまりもっていた筆を松の根本に捨てたという伝説によるものである。

紀伊名所図会』二巻(筆者注:二編五之巻)の「藤白御坂」の家集に「坂路多く崎嶇(きく)ならず、嶺(たうげ)よりの眺望いはんかたなし。弱浦(わかのうら)をさること遠からずして南海の諸州目下に棊置(きち)すれば、朝暮の風光千態萬状、奇を呈し變を供し、瞩目するに應接暇あることなし。昔日(せきじつ)巨勢金岡爰に登臨し、真景を模せんとして竟におよぶことあたはず、松下に筆を投じて奇絶を嘆ぜしとかや。」と記している。

この他に、筆捨松由来については、第 34 代舒明天皇(629 〜 641)は、熊野へ御幸の途次、藤白峠で王法の隆昌を祈念し、小松を谷底へ投げられた。帰途、小松が根付いていたので、吉兆である、と喜ばれた。以来、投げ松と呼ばれているとの説がある。

実際は、巨勢金岡は藤白峠には登っていないが、当代一の宮廷の絵師をもっても、描けないほど藤白峠からの景色は素晴らしい事を強調しているのである。室町時代の末から江戸時代の初めに藤白峠の近くに筆捨松の口碑が生まれその故事にちなんで和歌山初代藩主徳川頼宣公が筆捨松の傍に作らせたと伝えられている硯の大石がある。 

  • 室町時代の応永34年(1427)、足利義満の側室北野殿が熊野詣での際に先達をつとめた住心院僧正實意が記した日記、通称「北野殿熊野参詣日記」には次のような記述があり、この時代に既に藤白峠の景観と巨勢金岡が結びつけられていたことがわかる。

(九月)二十三日小雨
藤代たうけ(峠)にて片箱進上、守護方より御たる折済々まいる、此所の眺望いまさら(今更)ならねとも、誠に金岡か筆もおよはさりけん(及ばざりけん)ことはり(理)なり

    放送日:平成2年(1990)3月24日
    題名:筆捨ての松
    ナレーション:市原悦子
    出典:紀州の民話(日本の民話56)、徳山静子、未来社、1975年4月25日

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。