藤白坂に「おごり」を戒めた「筆捨松」の話が残っている。
平安初期、風景や風俗画に新様式を開いた官廷絵師、巨勢金岡(こせ の かなおか)が、熊野詣での途中、峠の技ぶりのよい松に腰をかけ、写生をしていた。そこへ一人の童が出てきて、「どちらが上手か、競争しよう」と持ちかけた。
ところが、どちらもうまくて甲乙がつかない。そこで童は、描いた鳥を飛び立たせると、金岡も鶯を飛び立たせた。さらに童が手をたたくと、鳥は絵に戻ったが鶯は帰ってこない。金岡はくやしくなり、絵筆を松の根元へ投げ捨ててしまった。その童こそ、熊野権現の化身で、おごった金岡を戒めるためにやってきたのだという。
この話は、現代にも通じよう。そのせいか、土地の人たちは、その教訓をいつまでも忘れまいと、近くに石碑を建て、二代目の松を植えるなど、大切にしている。
- この物語について、筆捨松の近くに設置されている説明板では「投げ松」の伝承とともに次のように紹介されている。
藤白伝承遺蹟 筆捨松(ふですてまつ)由来記
「投げ松」
第34代舒明(じょめい)天皇(西暦635)は、熊野へ行幸の途次 藤白峠で王法の隆昌を祈念し 小松にしるしをつけ谷底へ投げられた。帰路 小松が根づいていたので吉兆であると喜ばれた。以来「投げ松」と呼ばれていた。
「筆捨松」
平安前記の仁和年間(西暦885~888)の頃 絵師巨勢金岡(こせの かなおか)は、熊野詣での途次 藤白坂で童子と出会い 競画(きょうが)することとなり 金岡は松に鶯(うぐいす)を、童子は松に烏(からす)を描いた。
次に金岡は童子の絵の烏を、童子は金岡の絵の鶯を 手を打って追うと両方とも飛んでいった。こんどは、童子が烏を呼ぶと、どこからか飛んできて絵の中におさまった。
しかし 金岡の鶯は遂に帰らなかった。「無念!」と筆を投げ捨てた。
筆は「投げ松」のところへ落ちた。以来、筆捨松と呼ばれてきた。童子は熊野権現(くまのごんげん)の化身(けしん)であったといわれている。
「郷土史より」
平成十五年十一月三日
寄贈 海南ロータリークラブ
- また、この物語は、毎日放送制作により長年にわたり放送されたTVアニメ「まんが日本昔ばなし」で、「筆捨ての松」というタイトルにより放映された。「まんが日本昔ばなし 〜データベース〜 」という個人サイトによると、その概要は次のとおりである。ここでは、金岡がカラスの絵を、童子がウグイスの絵を書いたことになっており、上記の説明板の内容と逆転している。
筆捨ての松
名人といえどもおごり高ぶりはならん、という話
昔、巨勢金岡(こせのかなおか)という絵描きの名人がいた。ある日、熊野へ那智の滝(なちのたき)を写生するために旅に出た。その途中、藤白峠(ふじしろとうげ)で、7.8歳くらいの男の子と出会った。魚の入った天秤棒を肩に担いで熊野からやってきたという。
二人は絵の描き比べをする事になった。男の子は松にウグイスの絵を、金岡は松にカラスの絵を描いたが、どちらも見事な出来栄えで甲乙つけがたかった。
男の子は「この絵の鳥を飛ばせてみよう」と言って手を一つたたくと、ウグイスは絵から抜け出した。驚いた金岡も手をたたいてみたが、カラスはなかなか絵から抜け出なかった。ところが、男の子が目眉をピクピクすると、カラスはあっさり絵から抜け出た。
さらに男の子は「今度は、抜け出た鳥を絵の中に戻そう」と言い、手を二つたたくとウグイスは戻ってきて絵の中におさまった。しかし、カラスは金岡がどんなに呼んでも戻ってこなかった。
男の子が去った後、松の木にたくさんのカラスたちが集まり、金岡をあざけるように鳴いていた。カラスは「いくら名人巨勢金岡といえども、あの子にはかなうまい。あの男の子は熊野権現様の化身じゃからな」と言ってカーカー鳴いた。
金岡は悔しさのあまり、持っていた大きな筆を松の根本に投げ捨てた。「熊野権現様が、わしの思い上がりをたしなめられたのかもしれん」と、思い直した。
その後、都に帰った金岡は二度とおごることなく、絵の修業に励んだという。名人といえどもおごり高ぶりはならん、という戒めをのこして金岡が筆を投げつけた松を「筆捨松」と呼ばれるようになったそうだ。
(投稿者: マルコ 投稿日時 2013-8-24 18:26)
放送日:平成2年(1990)3月24日
題名:筆捨ての松
ナレーション:市原悦子
出典:紀州の民話(日本の民話56)、徳山静子、未来社、1975年4月25日
まんが日本昔ばなし〜データベース〜 - 筆捨ての松
- 巨勢金岡は、平安時代前期の貴族・宮廷画家(生没年不詳)。後述の金岡神社の由緒によれば、清和天皇(在位858~876)、陽成天皇(在位876~884)、宇田天皇(在位887~897)、醍醐天皇(在位897~930)に仕え、大納言の位を得て宮中で障子、屏風等に画を描いたとされる。
- 当時の絵画は「唐絵」と呼ばれて多くが中国(唐)から輸入されたものであり、国内で描かれる場合でも中国の故事や人物などを主題にすることが一般的であったが、巨勢金岡は主に日本の故事・人物・事物・風景等を主題とした絵画を描いた。この画風は当時「新様」と評されてもてはやされ、後に「大和絵」と呼ばれる様式の始祖と位置付けられるようになった。
- 菅原道真が記した「菅家文草」には、貞観年間(859~877)に道真が金岡に対して神泉苑(平安京大内裏に隣接して造営された天皇のための庭園)の絵を請うたとの記載がある。このほか、御所の障子に漢詩人の肖像を描いた(日本紀略)、唐本を基に大学寮(官僚育成機関)に先聖先師九哲(孔子と10人の高弟)の像を描いた(江家次第・台記)、藤原基経や源能有の50歳を祝う屏風絵を描いた(菅家文草)、などの記録が残されているが、金岡が描いた作品そのものは現存していない。
巨勢金岡とは - コトバンク
- 鎌倉時代に編纂された説話集「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」の巻第11、384段には、巨勢金岡が描いたと伝えられる清涼殿の障子絵の馬が夜な夜な障子から抜け出て萩の戸の萩を食ったので、当時の帝が繋いだ姿に書き改めさせたところ、馬は障子から抜け出さなくなった、との話がある。また、次の385段には、仁和寺にある寛平法皇の御在所にある巨勢金岡の馬の絵がやはり抜け出して近隣の田を荒らすので、絵に書かれた馬の目を彫ってつぶしたところ田が荒らされることは無くなったとの話がある。本文にある「絵に描いた鳥が飛び出す」というエピソードは、こうした話を下敷きにしたものと考えられる。
384 南殿の賢聖障子は寛平の御時始めて描かれけるなり・・・ [やたがらすナビ]
385 仁和寺の御室といふは寛平法皇の御在所なり・・・ [やたがらすナビ]
- 江戸時代後期に曲亭馬琴が書いた伝奇風小説「南総里見八犬伝」では、八犬士の一人である犬江親兵衛のエピソードの中で、巨瀬金岡が描いたという「瞳無しの虎」の絵に管領・細河政元が瞳を描かせたところ虎が絵から飛び出して人々を喰らうようになったため、親兵衛が虎の瞳を射て元の絵に戻したという話が描かれている。
南総里見八犬伝の登場人物#細河政元 - Wikipedia
- 巨勢金岡をはじめとする巨勢氏の始祖は武内宿禰(たけのうちの すくね)の次男である許勢小柄宿禰(こせの おからの すくね)であるとされる。武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えたという伝説上の忠臣で、巨勢氏のほか、紀氏、平群氏、葛城氏、蘇我氏など有力豪族の祖とされ、和歌山市松原の武内神社境内に宿禰が産湯を使ったという「武内宿禰誕生井」がある。
330歳まで生きた? 伝説のヒーロー武内宿禰の足跡をたどる | わかやま歴史物語
- 大阪府堺市にある金岡神社は、祭神として住吉大神(すみよしのおおかみ)、素盞嗚命(すさのおのみこと)、大山咋命(おおやまくいのかみ)と並んで巨勢金岡が祀られている。実在の人物である巨勢金岡を祭神とする神社は全国唯一と言われる。下記の個人サイトに掲載されている神社本庁の記録によれば、同社の創建は仁和年間(885~889)で、当時の祭神は住吉大神のみであったが、後に素盞嗚命、大山咋命を加え、一条天皇の時(986~1011)に巨勢金岡を合祀し金岡神社と称することとなったとされる。
金岡神社由緒略記
起源については記録の明らかなもの無きも伝説によれば光孝天皇仁和年間(今より1100年前)居民安全年穀豊熟を祈らんためこれを創立し住吉大神を祀りしが、のち素盞嗚命、大山咋命を配祀し更に一条院天皇の時に巨勢金岡卿を合祀し金岡神社と称することとなった。
本社は全日本における画聖「巨勢金岡卿」を祀る唯一の神社で金岡卿はいうまでもなく日本画の大祖である。清和、陽成、宇田、醍醐の四朝に歴任し大納言に至り宮中に召されて障子、屏風等に画を描いた。伝説によると本社の所在地は金岡卿の隠棲の地であって神社の東方約3000mのところに金岡淵即ち金岡卿筆洗いの池というのがある。河内名所図絵にもこのことが載せられてあるが、察するに金岡卿は晩年致仕の後にこの地に隠棲して丹青を楽しみ風月を友としていたのであろう。巨勢氏糸図ならびに古今著聞集などによると卿の略伝があるが卿がこの神社の祭神として祀られたのは一条天皇のみ代に勅命によったものであることが明らかにせられている。この点から考えてくるとこの地が金岡卿と古い縁故のあった土地であることが疑われない。大正末期から当社では御祭神である巨勢金岡卿の神慮を慰めるため毎年5月3日午前10時から「画神祭」を行ない式後社務所で席上揮毫会を開催している。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
- 実在の人物が登場する数少ない狂言の一つに「金岡」がある。これは、巨勢金岡が宮中で出会った美女に恋心を抱いて物狂いとなっているところに妻が現れて、「女が美しいのは化粧のおかげだから、私の顔を得意の絵筆で彩ってみせよ」と迫ったため、金岡が妻の顔に色を塗り始めたものの、却って奇妙な顔になってしまう・・・、という滑稽譚である。
色っぽい役どころ!中世きってのスター絵師が登場する狂言『金岡(かなおか)』【狂言に見る日本の職人・商人たち 09】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
- 筆捨松について、「熊野参詣道王子社及び関連文化財学術調査報告書(和歌山県教育委員会 2012)」には次のように記載されている。これによると、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊国名所図会」では、巨勢金岡は熊野権現と絵の描きくらべをしたのではなく、あまりに絶景であったので絵に描くことができずに筆を投げ捨てて嘆いたと伝えているようである。
藤白坂を登り、峠に近いところに、大きな松の木があり、ここに「筆捨松遺跡 明治四十二年内海村保光會」の石碑が立っている。この石碑について海草郡の『内海村誌』(明治 42 年)に「内海村保光會ハ村ノ變遷沿革名勝古蹟等ヲ明ラカニシ且舊蹟ノ煙滅ヲ防カンタメ内海村誌ヲ發行シ建碑四基永ク其ノ保存ヲ圖ルヲ目的トス」と記されている。
筆捨松の伝承は、平安時代の初め、天下一といわれた宮廷の絵師・巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野権現の化身である童子との絵の書きくらべをして負け、くやしさのあまりもっていた筆を松の根本に捨てたという伝説によるものである。
『紀伊名所図会』二巻(筆者注:二編五之巻)の「藤白御坂」の家集に「坂路多く崎嶇(きく)ならず、嶺(たうげ)よりの眺望いはんかたなし。弱浦(わかのうら)をさること遠からずして南海の諸州目下に棊置(きち)すれば、朝暮の風光千態萬状、奇を呈し變を供し、瞩目するに應接暇あることなし。昔日(せきじつ)巨勢金岡爰に登臨し、真景を模せんとして竟におよぶことあたはず、松下に筆を投じて奇絶を嘆ぜしとかや。」と記している。
この他に、筆捨松由来については、第 34 代舒明天皇(629 〜 641)は、熊野へ御幸の途次、藤白峠で王法の隆昌を祈念し、小松を谷底へ投げられた。帰途、小松が根付いていたので、吉兆である、と喜ばれた。以来、投げ松と呼ばれているとの説がある。
実際は、巨勢金岡は藤白峠には登っていないが、当代一の宮廷の絵師をもっても、描けないほど藤白峠からの景色は素晴らしい事を強調しているのである。室町時代の末から江戸時代の初めに藤白峠の近くに筆捨松の口碑が生まれその故事にちなんで和歌山初代藩主徳川頼宣公が筆捨松の傍に作らせたと伝えられている硯の大石がある。
文化財各種報告書 | 和歌山県教育委員会
- 室町時代の応永34年(1427)、足利義満の側室北野殿が熊野詣での際に先達をつとめた住心院僧正實意が記した日記、通称「北野殿熊野参詣日記」には次のような記述があり、この時代に既に藤白峠の景観と巨勢金岡が結びつけられていたことがわかる。
(九月)
二十三日小雨
藤代たうけ(峠)にて片箱進上
守護方より御たる折済々まいる
此所の眺望いまさら(今更)ならねとも
誠に金岡か筆もおよはさりけん(及ばざりけん)ことはり(理)なり
和歌 吹上 玉津嶋御めのまへ(目の前)にみえたり、
清水の浦はこの山つヽき(続き)のふもとなり、
こまやかなる風情、絵にもかきとヽめかたし(描き留め難し)
※筆者注:本文は、個人サイト「百姓生活と素人の郷土誌」中、「熊野古道関係の古書等の資料」に掲載されているものを参考にさせていただいた。
北野殿熊野詣日記
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。