海南市に藤白という地がある。藤白の峰を下ったあたりの藤白坂。そこに、生垣に囲まれた歌碑がひとつ。
家にあれば 笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば推の葉に盛る
万葉の代表的な哀歌とされるそれは、有間皇子(640~658年)が、その身のはかなさを詠んだものとか。藤白の坂は、有間皇子終えんの地という。それゆえに、海南の人の多くは、いまも皇子を身近な人としてとらえ、その身の余りのはかなさに胸をいためる。そこに、遠い時の流れを超えた、人の情が行き交う。
いまから1300年の昔。難波の宮で、父・孝徳天皇らと平穏な日々を送っていた有間皇子に、一大異変がふりかかる。仕掛人は中大兄皇子(のちの天智天皇)。
「都を飛鳥へ戻しては…」
中大兄の進言に、天皇は
「まだその時機ではない。時がくれば移そう」
と答えただけ。
だが中大兄は強引だった。やがて、付人も、役人も、あらかた飛鳥へ去った。中大兄の妹ながら、天皇の妃となった間人(はしひと)も難波を離れた。悲嘆にくれる天皇は、皇子にみとられながら世を去った。皇子は悲しみをこらえ、生駒山のふもとに家を建て、一人ひっそりと暮らすようになった。
悲劇のプリンス・有間皇子の、短かい一生を伝える話は、こんな語り口ではじまる。いわゆる皇子物語は「紀州の民話」(未来社)や「むかし紀の国物語」(宇治書店)など、何冊かの本にまとめられてもいる。そしてそれらは栄華の身から一転、皇位をねらった謀反人として、身のあかしが立たないまま、刑場の露と消えた皇子を語るにふさわしく、物静かな口調となる。
有間皇子は、大化改新(645年)を主軸に、激しく揺れ動いた古代天皇制政治の、典型的な政争の犠牲者だった。
天皇が、中大兄らを伴って牟婁の湯(白浜温泉)ヘ赴いたときのこと。都の留守を預かっていた蘇我赤兄が、生駒を訪れた。
「庶民の苦しみは見るにしのびない。今こそ天皇と中大兄を倒して、皇子が政権を」皇子が身を乗りだしたとき、かたわらの机の足がボキリと析れた。
「いや、いまはまだその時機ではない」
その夜、皇子の小さな家は、赤兄の手勢に取り囲まれた。
「はかられたか」
牟婁の湯の天皇の前で、中大兄に厳しく問いつめられた皇子は、ただ一言
「我は何も知らない。天と赤兄のみが知っていることだ」
都での再審が待っていたのか、皇子はもと来た道を北へ。だが、皇子の運命はそこで尽きる。牟婁からの追手に、皇子は藤白坂で再度捕われ、ついに死罪。ときに皇子18歳。
皇子が処刑されたと伝えられる地は、歌碑のすぐ近くだとか。だが、そこを通っていたはずの細い道~熊野古道は舗装され、近くの民家やミカン山へ出入りする車が通う。背後には、石油会社の大きなフレアスタックがそびえ、高速道路を疾走する大型トラックのごう音が絶えない。そんな“現代”の中に、最近、皇子が復権した。歌碑のあるところから東へ200メートルばかり。
昭和56年4月、藤白神社の境内に、地元の有志たちの手で「有問皇子神社」が建てられた。小さな祠には、やはり地元の画人の手による、黄金の太刀を佩(は)いた皇子の肖像。そのすぐわきに、地元の歌人たちが皇子をしのんで詠んだ歌が十数首。境内には追悼の万葉歌の碑。
藤白の み坂を越ゆと白拷(しろたえ)の わが衣手は濡れにけるかも
あわただしい現代の中に、置き忘れられたような祠と歌碑。ひっそりとしたその境内にたたずむとき、あたかも自分が、千三百年の昔に立ち返ったような思いにとらわれる。
万葉集には、皇子いまひとつの哀歌
磐代の 浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまたかへり見む
も残される。その歌碑が建つのは、白浜の少し北、日高郡南部町岩代。有間皇子は、まさに薄幸の人だった。
(メモ:有間皇子神社は、国道42号線阪和高速入り口から車で約3分。国鉄紀勢線海南駅から車で10分たらず。)
- この物語について、和歌山県が管理するWebサイト「わかやま歴史物語100」では次のように紹介している。
悲劇の皇子 有間皇子と藤白坂
孝徳天皇の皇子として生まれながら政争に巻き込まれ、処刑された有間皇子(ありまの みこ)。その刑場跡が藤白坂です。大化の改新を成功させた中臣鎌足と後の天智天皇である中大兄皇子(なかの おおえの みこ)は、孝徳天皇を即位させました。それゆえ皇位継承の可能性も多分にあった有間皇子ですが、蘇我赤兄(そがの あかえ)に謀反をそそのかされたことで運命の歯車が狂います。かえって赤兄らによって邸を包囲され、囚われの身となってしまいました。中大兄皇子の裁きを受けるために紀伊国・牟婁の湯で行幸中の斉明天皇のもとへ護送される途中、有間皇子が詠んだ1首が藤白坂の入口に歌碑として残されています。「家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」(家にいれば器に盛るご飯を、こういう旅だから椎の葉に盛ることだ)。旅情を感じさせるようにも思えるこの歌も、このあと彼がたどる運命を予感したものだと思えば、その切ない覚悟が込められた歌だと感じます。有間皇子はその後、牟婁の湯へ到着し中大兄皇子の厳しい尋問を受け飛鳥へと送還されます。そしてその途中、ここ藤白坂で絞首され、19歳の若い命は絶たれてしまうのです。
悲劇の皇子 有間皇子と藤白坂 | わかやま歴史物語
- 645年、中大兄皇子・中臣鎌足(なかとみの かまたり)らが蘇我入鹿(そがの いるか)を宮中にて暗殺した(乙巳の変 いっしのへん かつてはこの暗殺事件を指して「大化の改新」と呼んでいたが、現在ではこの暗殺事件を「乙巳の変」、これ以後に行われた一連の国政改革を「大化の改新」と呼ぶのが一般的である)。時の天皇であった皇極天皇は自らの子である中大兄皇子に位を譲ろうとしたが、中大兄は辞退して軽皇子(かるおうじ、皇極天皇の弟)を推薦した。軽皇子は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、中大兄皇子の異母兄)を推薦したものの、古人大兄が出家までしてこれを辞退したため、やむなく自らが天皇に即位した。これが孝徳天皇(有間皇子の父)である。
- 孝徳天皇は、我が国の史上初めて元号を「大化」と定め、公地公民制、租庸調の税制、班田収授法など、天皇中心の中央集権国家を目指した種々の改革を行った(大化の改新)とされるが、実質的には、これらの多くが、中臣鎌足の主導により、皇太子となった中大兄皇子(孝徳天皇からみれば甥(姉・皇極天皇の子)にあたる、後の天智天皇)、その弟である大海人皇子(後の天武天皇)らによって進められたものと考えられている。
大化の改新 - Wikipedia
- 孝徳天皇は大化元年(646)に都を難波宮に移したが、皇太子である中大兄皇子はこれに反対し、勝手に多くの皇族を連れて大和に戻ってしまった。そのまま孝徳天皇は白雉5年(654)に崩御したが、皇太子である中大兄皇子は天皇に即位せず、皇極太上天皇が斉明天皇として重祚(ちょうそ、一旦退位した後再び即位すること)した。
- 飛鳥に戻った有間皇子は、斉明天皇に病が治ったことを報告するとともに、牟婁の湯の素晴らしさを話して聞かせたため、これを聞いた斉明天皇は自らも牟婁の湯に赴いた。
- 斉明天皇が不在の間、留守官(るすのつかさ)として飛鳥に残っていた蘇我赤兄(そがの あかえ)が有間皇子の家を訪れて、斉明天皇と中大兄皇子による政治を批判し、皇子に謀反を勧めた。赤兄の言葉を信用した有間皇子は自らも謀反の意思があることを告げて赤兄と密議を行った(このとき夾膝(おしまき 脇息とされる)が壊れたため、不吉であるとして実行は延期された)が、実はこれは中大兄皇子と通じていた赤兄が罠を仕掛けたものであり、有間皇子は捕らえられて牟婁の湯にいる斉明天皇のもとへ送られることになった。
- 本文にもあるとおり、中大兄皇子と斉明天皇の尋問に対して、有間皇子は「我は何も知らない。天と赤兄のみが知っていることだ。(天與赤兄知 吾全不知)」と答えたと伝えられている。
- 尋問の後に有間皇子は都へ送り返されることとなるが、その途上、藤白坂において、中大兄皇子の命を受けた丹比小沢連国襲(たじひの おざわの むらじ くにそ)によって絞首刑に処せられた。尋問からわずか2日後のことであった。
- こうした一連の経緯は、日本書記の巻第二十六「斉明天皇」に次のように記載されている。
原文
(斉明天皇三年)
九月。有間皇子性黠。陽狂云々。
徃牟婁温湯僞療病。
來讃國體勢曰。
纔觀彼地。病自■消云云。
天皇聞悦思欲徃觀。(中略)
(斉明天皇四年)
十一月庚辰朔壬午。
留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰。
天皇所治政事有三失矣。
大起倉庫積聚民財。一也。
長穿渠水損費公糧。二也。
於舟載石運積爲丘。三也。
有間皇子乃知赤兄之善己而欣然報答之曰。
吾年始可用兵時矣。甲申。有間皇子向赤兄家。
登樓而謀。夾膝自斷。
於是知相之不祥。倶盟而止。
皇子歸而宿之。
是夜半赤兄遣物部朴井連鮪。
率造宮丁圍有間皇子於市經家。
便遣騨使奏天皇所。戊子。捉有間皇子與守君大石。
坂部連藥。鹽屋連鯏魚送紀温湯。
舎人新田部米麻呂從焉。
於是皇太子親問有間皇子曰。
何故謀反。
答曰。
天與赤兄知。吾全不解。庚寅。遣丹比小澤連國襲絞有間皇子於藤白坂。
※筆者注: 上記引用文はwikisourceによる。
日本書紀/卷第廿六 - 维基文库,自由的图书馆
読み下し文
(斉明天皇三年)
九月に、有間皇子、性黠くして陽狂すと、云々。
牟婁温泉に往きて、病を療むる偽して来、
国の体勢を讃めて曰はく、
「纔彼の地を観るに、病自づからに蠲消りぬ」と、云々。
天皇、聞しめし悦びたまひて、往しまして観さむと思欲す。(中略)
(斉明天皇四年)
十一月の庚申の朔壬午に、
留守官蘇我赤兄臣、有間皇子に語りて曰はく、
「天皇の治らす政事、三つの失有り。
大きに倉庫を起てて、民財を積み聚むること、一つ。
長く渠水を穿りて、公糧を損し費すこと、二つ。
舟に石を載みて、運び積みて丘にすること、三つ」といふ。
有間皇子、乃ち赤兄が己に善しきことを知りて、欣然びて報答へて曰はく、
「吾が年始めて兵を用ゐるべき時なり」といふ。甲申に、有間皇子、赤兄が家に向き、
楼に登りて謀る。夾膝自づからに断れぬ。
是に、相の不祥を知りて、倶に盟ひて止む。
皇子帰りて宿る。
是の夜半に、赤兄、物部朴井連鮪を遣して、
造宮る丁を率ゐて、有間皇子を市経の家に囲む。
便ち駅使を遣して、天皇の所に奏す。戊子に、有間皇子と守君大石・
坂合部連薬・塩屋連鯯魚とを捉へ、紀温泉に送りたてまつりき。
舎人新田部米麻呂、従なり。
是に、皇太子、親ら有間皇子に問ひて曰はく、
「何の故か謀反けむとする」
とのたまふ。答へて曰さく、
「天と赤兄と知らむ。吾全ら解らず」とのたまふ。庚寅に、丹比小沢連国襲を遣して、有間皇子を藤白坂に絞らしむ。
※上記読み下し文は、池原 陽斉「有間皇子自傷歌の背景-斉明紀への検討を通じて-(「日本文学文化 4号」東洋大学日本文学文化学会 2004)」による。
- 漫画家の里中満智子が昭和58年(1983)に講談社「mimi DX」で連載を開始した作品「天上の虹-持統天皇物語-」(後に連載誌を「mimi Excellent」に変更した後、単行本描き下ろしを経て平成27年(2015)に完結)では、序盤で有間皇子に関するエピソードが詳しく描かれており、これが同誌の主な読者層である若い女性の間に「悲劇の皇子」としての有間皇子のイメージを定着させる大きな役割を果たすこととなった。
- 本文中「フレアスタック」とは、石油精製プラント等で発生する余剰ガスを高い塔の先で燃焼させることで無害化(大部分を二酸化炭素と水に変える)ものである。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。