昔、十丈峠に、カが強く、とんちにたけた悪四郎という男がいた。
ある日、田辺へ出て行き「わしの家は山十丈あり。裏のヨモンの木には、ブンブの鳥が止まっている」と話した。人々は「どんな立派な家に住み、ブンブの鳥とはどんな鳥なのか」と熊野詣での途中、立ち寄った。すると、山十丈というのは山の名前。ヨモンの木はヨモギ、ブンブとはハエだとわかって、あ然とした。
また、悪四郎の母が「街道を越えて来た米は永持ちがしない」とこぼしているので、田辺から山を越えて米を運び「街道を通らなかったので永持ちするぞ」といったとか。
カが強く、太い松の枝を強引に下に降ろして腰をかけ、数人が並んで腰をかけたところで立ち上がり、枝のはね返るカで皆をはじき飛ばしたともいう。享保7年の熊野道中記に「昔、十丈四郎という者住めり」と記され、ちかくに悪四郎山がある。
(メモ:悪四郎山(標高800メートル)は、十丈峠(644メートル)の南3キロ。十丈峠は高原(たかはら)から近い。)
- この物語は、日本児童文学者協会編「県別ふるさとの民話 20 和歌山県の民話(偕成社 1980)」に、同名の「怪力悪四郎」として掲載されている。しかし、ここでは悪四郎が家自慢を語ったのは四国参りの際のことであるとし、田辺から山を越えて米を運んだ話は含まれていない。
怪力悪四郎(かいりき あくしろう) <伝説・西妻郡>
昔、熊野の十丈(じゅうじょう 中辺路町)に悪四郎(あくしろう)っていう男があってんと(いたそうだ)。この男、すばらしく力持ちの体の大けな(大きな)男で、その上、頓智にたけた人やったて。
あるとき、悪四郎が大けな松の木の枝に腰掛けて、一服しててんと(していたそうだ)。
そいたら、熊野参りの人らがおおぜいやってきてん。
(あの話っぷりは関東ベエやな。)
悪四郎は煙草をふかしもて(ふかしながら)、関東ベエの通り過ぎるのを待っててん。この土地では、関東から来た熊野参りの人のことを<関東ベエ>って呼んでたんや。
関東ベエらは、悪四郎が、低うになった木の枝に腰掛けているのを見て、
「ああ、疲れた。俺たちも、ちょっと休むべえ。兄さん、ここに腰掛けさせておくれよ。」
言うて、大きな松の木の枝へ、みんな、鈴なりになって腰掛けたんや。
しばらくして、煙草も済んだんで、悪四郎は言うたんやて。
「みんな、もうここに腰掛けるのやめてよ。わし、もう余所へ行くさか(行きますから)。わしが立ったら、この松の枝、まっすぐに跳ね上がるでえ。」
関東ベエらは、
「そんなばかな。」
「そんなことあるものか。」
いうて信用せえへん。
いくら言うてもきかん。そこで、悪四郎は、
「そんなら、もうどがいなことなっても(どんなことになっても)、わしゃ知らんでえ。」
って、腰を上げたんやて。
そいたらな(そうすると)、松の木の枝がピーンと跳ね上がって、関東ベエらはブーン田辺の方へ吹っ飛ばされてしもてんと(しまったそうだ)。
「それみいら(それみたことか)、わしの言うた通りやろが。」
悪四郎は関東ベエらの吹っ飛ばされた後を、大またでドシドシドシと追わえて(追いかけて)いったんやて。
そのとき付いた、足跡が、いま<大人(おびと)の足跡>って言われてる大けな落ち込みなんやと。
またあるとき、悪四郎は四国参りをしたんやて。
四国で、あっちこっちの家に泊めてもろて、食べさしてもろたんやが、大食いのため、なかなか、腹が大けに(いっぱいに)ならんのや。
そこで、悪四郎はこういうたんやて。
「まあ一度紀州へ来ておくれ、ご馳走しますよし。わしは じゅうじょうやま に住んでんね。」
これを聞いた四国の人は、
(ほほう、この男の家は十畳(じゅうじょう)の部屋が八間(やま)もあるんか。そんな家なら、訪ねて行ったら、どえらいご馳走してくれるやろなあ。)
思って、
「さあさあ、これおあがり。さあ、これも、これも。」
って、どえらいご馳走作ってくれて、腹いっぱい食べさしてくれたんやと。
四国の人が、
「紀州へ行ったら、なにか変わった物がありますか。」
って聞くので、悪四郎は、
「そら、あるある。わしの家へ来たら、ヨモンの木っていうのがあって、カモンの鳥っていうのがぎょうさん(たくさん)とまり、ええ声出して、そらもう、賑やかなものですわ。」
言うたんや。
悪四郎は、どこへ行っても同じ事を言うて、いつも腹いっぱい食べさしてもろて、元気に熊野へ帰って来たんやと。
次の年に、四国の人らがおおぜい連れもて、悪四郎の家へやって来た。十畳八間(じゅうじよう やま)もあるような大けな家やさか、すぐ見つかると思ってやって来たけど、なかなか見つからへん。
やっとこさで悪四郎の家を見つけたら、なんのことはない、ちっさなちっさな家で、ばあさんと二人で住んでたんやと。
「悪四郎さん、この家ですか。ずいぶん探しましたよ。」
「そりゃ、ご苦労さん。わしの家はこれや。」
「十畳八間もあるというさか、八十畳敷きの大きな御殿のような家かと思いましてな。」
「わしゃ、家が大けいなんど、言わなんだ。ただ じゅうじょうやま に住んでる言うただけや。見なはれ。家の後ろにあるあの山が 十丈山(じゅうじょうやま) っていうんや。」
「なんや、そうか。ところで、ヨモンの木、カモンの鳥って一体どんなもんなんや。ちょっと見せてよ。」
「あれ見いら(見なさい)。裏に、ぎょうさんヨモギ(蓬)が生えてあるやろ。あれをここらではヨモンの木って言うんや。カモンの鳥っていうのは、家じゅうブンブン飛び回ってる蚊のことや。なかなか、ええ声してるやろ。」
これを聞いて四国の人ら、開いた口がふさがらなんだと。
またある時期、悪四郎は、駕籠かきを仕事にしてたことがあった。ふつう、駕籠かきいったら、二人で担ぐもんやが、なにせ悪四郎は力持ち。一人で駕籠を担いで、とっとっとと十丈の山坂を駆け回ってたんやと。
ある日のこと、熊野参りの客を駕籠に乗せたまま橋の上で一服してたんや。駕籠を担いだままでは、煙草に火を着けることがでけん。そこで、駕籠を橋の欄干の外に突き出し、棒の端を脇の下にはさんで、火打ち石をカチカチ打ってんと。
ところが、なかなか火が着かん。
駕籠があんまり揺れるんで、客がひょいと首を突き出し、外を覗いて見たら、深い深い谷川の上や。客はびっくりしたのなんの。腰が抜けてしまい、がたがた震いもて、
「た、た、煙草を吸うのは後にしてくれ。駕籠代は、うんとはずむさけ。」
って叫んだそうや。
悪四郎っていう男、こんな変わりもんやったけど、いまは悪四郎神社ってとこへ祀られて神さんになってるんやと。
<再話・和田寛>※グレーの方言解説は筆者による。
- 上記引用文中にある「大人の足跡」とは、巨人の足跡であるとの伝承を有する窪地のことを指す。この伝承は田辺市(旧田辺市、旧中辺路町)各地に残されており、中でも会津川沿いの景勝地「奇絶峡(きぜつきょう)」にあるものが有名である。
大人の足跡:熊野の説話
- また、上記の書籍より前の昭和47年(1972)に出版された、熊野路編さん委員会編「くまの文庫3 熊野中辺路伝説(下)(熊野中辺路刊行会)」にも「十丈の悪四郎」という題名で概ね本文と同様の話が掲載されている。
十丈の悪四郎
中辺路町の十丈峠は、高原と逢坂峠の間に位置する旧街道の休憩所であり、以前は数戸の人家があったが、今は人が去って荒廃に帰そうとしている。
ここ十丈に、昔、悪四郎という男がいた。その屋敷跡だと伝える所があり、享保七年(1722)の熊野道中記にも、十丈の条に「立場茶屋、昔十丈四郎と云者住し処也」と記されている。近くに悪四郎山があり、悪四郎を祀る宮もあったから、いかに有名な存在であったかがわかる。
悪四郎は力が強く頓智にたけた人であった。あるとき、高原で松の枝に腰をかけていると、熊野参りの一行数人がやって来て、悪四郎と並んでその枝に腰を下した。悪四郎が「わしが立ったら、お前がたはこの枝にはねとばされるだろう」というと、一行は「そんなことはあるまい」といい張ったが、悪四郎が立つと同時に枝がはね上がって、みなとばされて引っくりかえったという。あるときは、悪四郎が田辺へ行って「わしの家には山十じょうあり、裏のヨモンの木にはブンブの鳥がとまっている」と話した。これを聞いた人たちが、どんなりっぱな所で、ヨモンの木、ブンブの鳥とはどんなものだろうかと、熊野参りの途中で立ち寄ってみると、山十じょうというのは山の名であり、ヨモンの木、ブンブの鳥とは、ヨモギの葉に糞蝿がとまっているのであった。
またあるとき、悪四郎の母が、買い米がすぐ食べてしまって無くなるので、「街道を越えてきた米はおけがない(永もちしない)」といって嘆いた。これを聞いた悪四郎は、田辺で買った米を山づたいに持ち帰って「今度の米は山を越えてきたからおけがあるだろう」といったという。
こうした悪四郎の大力や才知を物語る逸話はほかにもいくつか伝えられている。
- 本文や上記引用文では、享保七年の熊野道中記に「立場茶屋、昔十丈四郎と云者住し処也」との記述があると紹介しているが、これには異本があるようで、現在広く知られている「南紀徳川史」収載の「熊野道中記」には「立場茶屋昔十條と云者住し處也」との記述があるのみで、「四郎」の記述は見られない。
参考:熊野道中記
- 合併前の旧中辺路町が編纂した「中辺路町誌」には「悪四郎こぼれ話」という項があり、下記のとおり悪四郎の後日譚とも言えるような話を紹介している。これによれば、手のつけられないほどの力自慢であった悪四郎を栖雲寺の和尚が教え諭し、やがて円熟するに至って住民に親しまれるようになり、遂には神格化されるほどであったという。
悪四郎こぼれ話
悪四郎の怪力、頓智ゆたかな話は有名で数多く伝わっており、彼の住んでいた屋敷跡、また悪四郎を祀った神社も残っていたとも言われている。彼が四国から来た強力と相撲をとったことや、関東ベーの話など、栖雲寺の和尚の所へ自まん話に来ていた。
それを聞いていた和尚さんは「むかしから高原には、若者が力くらべをした丸い石がある、おまえはそれを担いであの深い沼まで持って行けるい?」と話しかけた、鼻でわらった悪四郎は軽々とその石を持ち、沼田のそばまで持って行き、和尚、人をバカにしていると後の和尚を振り返えり、これみよとばかり沼の中へ投げこんだ。
和尚はまた「近く若者の力くらべがお寺で行われる、それまであの石を元の所へもどしておいてくれ、あなたの力だったらたやすいことだろう」と言い捨てて帰ってしまった。
悪四郎はバカにしていると内心腹を立てながらも沼田に入り底深く沈んでいる丸い石を掴もうとしても丸い石には手がかりもなく、しかも石は泥に吸いついて動かない、悪四郎は力は余るがどうにもならない、彼は油汗を流して何回も試してみたが石は微動だにしない。
とうとう悪四郎は和尚の処へ行き、あの石だけはどうすることもできない、と述懐したという、こんなことがあってから悪四郎は和尚の教化をうけますます円熟し晩年は高原、大内川の人々から親しまれ遂には神格化されるまでになったと言う。
悪四郎山 <中辺路町>
西牟婁郡中辺路(なかへち)町の十丈峠から北東約1.1kmにある山。標高781.6m。牟婁帯上部と呼ばれる古第三紀層で、主として砂岩からなる。
熊野街道は山頂の北西山腹を迂回して通る。
悪四郎とは十丈に住む大力で頓智にたけた伝説上の人物(修験者であろう)で、山名となるほか、悪四郎を祀る神社や、悪四郎の屋敷跡と伝える所もある。
- 悪四郎屋敷跡と伝えられる場所は、熊野古道の十丈王子から500メートルほど東側に行ったところにある。現地には、次のような解説が記載された説明板が設置されている。
悪四郎屋敷跡
十丈の悪四郎は伝説上の有名な人物で、力が強く、頓智にたけていたといわれる。悪四郎の「悪」は、悪者のことではなく、勇猛で強いというような意味である。江戸時代の『熊野道中記』の一書に十丈の項に「昔十丈四郎と云者住し処なり」とあり、それがここだと見られている。背後の山が悪四郎山(782メートル)で、ここから約三十分で山頂へ登ることができる。
- 伝承によれば悪四郎を祀る神社もあるとされているが、上記で引用した中辺路町誌に「悪四郎を祀った神社も残っていたとも言われている」とあるように、その詳細については不明である。
*****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。