生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

「名古屋の派手婚」の元祖?・春姫(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、紀州藩初代藩主・浅野幸長(あさの よしなが)の娘で、後に尾張藩初代藩主・徳川義直(とくがわ よしなお)正室として嫁いだ春姫(はるひめ)を紹介します。「名古屋の嫁入り」という言葉があるほどに名古屋で行われる婚礼行事は派手なものと言われていますが、そのルーツは春姫紀州から尾張に嫁入りした際の豪華な輿入れ行列であるとの説もあり、春姫の名は和歌山よりもむしろ名古屋でよく知られているようです。

「春姫まつり」バナー(中止となった令和4年のもの)

 令和5年(2023)3月19日(日)、名古屋市中心部の久屋大通公園名古屋城を会場として「第一回 尾張徳川春姫まつり」というイベントが開催される予定です(本来は令和2年(2020)に第一回が開催される予定だったが、新型コロナ感染症まん延防止のためこれまで延期されてきた)。 
 このイベントでは、尾張徳川家初代藩主・徳川義直を支えた三人の女性、正室春姫」、生母「お亀の方」、側室「お尉の方(おじょうのかた 2代藩主・光友の母)」を筆頭とする時代行列が行われ、約100人のキャストが本格的な時代衣装に身を包んで春姫の絢爛豪華な嫁入り行列を再現することが予定されています。
 「第一回」と冠されてはいるものの、実はこうした時代行列が名古屋で行われるのは今回が初めてではありません。
 名古屋では、平成7年(1995)から平成30年(2018)にかけて実に24回にわたって「春姫道中」として同様のイベントが開催されており、「春姫の嫁入り行列」は既に春の風物詩として名古屋にすっかり定着しているのです。

 もともとこの「春姫道中」は、戦災で焼失した名古屋城本丸御殿の復元を求める市民運動の一環として、「本丸御殿フォーラム(後に「名古屋城文化フォーラム」、現在は「本丸ネットワーク」と改組・改称)」という市民団体の主催により始められたものです。
 社団法人中部開発センター(現在は公益財団法人中部圏社会経済研究所)の機関誌「CREC 中部開発センター NO.164(2008.9)」に掲載された「名古屋城本丸御殿の復元 -よみがえる城郭御殿の最高傑作-」にはこの運動について次のように記されており、春姫がその嫁入り先である本丸御殿を探して「御殿はどこじゃ!」と叫ぶパフォーマンスが春姫道中のクライマックスとなっていたようです。

進まない本丸御殿復元への道のりの中 市民の応援団体「本丸御殿フォーラム」が設立
 1986年、名古屋城整備基本構想調査会によって、初めて本丸御殿の復元が提言された。1992年には障壁画の修復も始まったが、バブルの崩壊等による資金難や、2005年に控えていた愛知万博開催と中部国際空港開港の2大事業の陰に隠れがちであったことなど、本丸御殿復元の実現への道のりは遅々として進まなかった。
 1994年5月、市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が設立され、本丸御殿を復元・早期再建することの必要性の市民へのアピールを民間の立場で開始した。同団体は毎年春に「春姫道中」と名づけた、初代尾張藩主・徳川義直に嫁ぎ、本丸御殿に居住していた春姫の嫁入り行列を再現して、本丸御殿の復元のデモンストレーションをしている。回を重ね、名古屋の春の風物詩となった春姫道中は、市内を練り歩いた後に、本丸御殿の跡地に到着し、春姫が「御殿はどこじゃ!」と叫ぶパフォーマンスをクライマックスにしている。

 

ポスト愛知万博事業として注目 ついに着工が決定する
(略)
 2007年、本丸御殿の復元を進めるうえで前提となる文化庁からの「特別史跡の現状変更許可」を受けたことにより、ついに本丸御殿復元は実現に向けて動きだすこととなった。
 こうした中、2008年春の春姫道中では「御殿はどこじゃ!」の春姫の問いに、名古屋市長が「御殿はここじゃ、ここに造るんじゃ!」と答えて、御殿復元の着工の決定を伝えるパフォーマンスが行われた。
バックナンバー 機関誌「CREC」|公益財団法人 中部圏社会経済研究所

 

 名古屋城本丸御殿の復元工事は平成21年(2009)から始められ、平成30年(2018)の「上洛殿」完成をもって10年間にわたる復元工事が完了しました。当初の目的を達成したことから「春姫道中」は平成30年(2018)の「第24回 春姫道中 Final」をもって終了となりましたが、同年6月の本丸御殿全面公開に先立って歴代の春姫役を務めた女性12人が本丸御殿に招かれて完成を祝ったとのことです。

www.asahi.com

 こうした「春姫道中」の伝統を受け継ぎ、新たな時代祭として再開を目指したものが冒頭で紹介した「第一回 尾張徳川春姫まつり」です。新型コロナウイルス感染拡大防止のためこれまで3度も開催延期の憂き目にあっていますが、今年こそ盛大に開催されることを期待したいものです。


 このように、名古屋では相当の知名度を有すると思われる春姫ですが、その出身地である和歌山ではあまりその名を聞くことはないようです。かなり奇妙な感じもするのですが、春姫の父は浅野幸長という人物であり、「紀州の殿様」としてよく知られている紀州徳川家の人物ではないということがその知名度の低さに影響しているのかもしれません。

 一般的には「紀州藩初代藩主」といえば徳川家康の十男である徳川頼宣(とくがわ よりのぶ)を指すことが多いのですが、江戸時代に成立した「」という政治体制を踏まえれば紀州藩」の初代藩主となったのは関ヶ原の戦いの後に和歌山城となった浅野幸長であるということになります。
 もともと和歌山城豊臣秀吉が弟・秀長に命じて築かせたものであり、秀吉の時代には秀長の家臣・桑山重晴(くわやま しげはる)が城代となってこの地域を治めていたため、歴史的には「初代和歌山城」は桑山重晴であるとする考え方が一般的です。
 これに対して、「」という制度が確立したのは徳川幕府成立後のことであり、このときに幕府から正式に紀州の支配権を認められたのは浅野幸長であるため、「初代紀州藩」は浅野幸長ということになります。
 そして、浅野幸長の死後に家督を継いだ弟・浅野長晟(あさの ながあきら 紀州藩2代藩主)が広島へ加増転封(詳細は後述)された後、徳川頼宣紀州藩として着任し、これ以後は「紀州徳川家」が代々紀州藩を務めることになります。このため徳川頼宣は正式には「紀州藩3代藩主」であり、「初代」という意味では「紀州徳川家初代」と呼ばれるべき人物であるということになります(8代将軍となった徳川吉宗はしばしば「紀州藩5代藩主」であったと言われますが、これは正確には「紀州徳川家5代」と表現すべきであると思います)
紀州藩#歴代藩主 - Wikipedia


 こうした藩主の変遷及び浅野幸長の治世について、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「地誌編 和歌山市」では次のように解説しています。

〔中世〕
(略)
 紀州を制圧した秀吉は,4月25日(筆者注:天正11年(1583))に開陣するが,その直後和歌山に弟羽柴秀長を置いて城を構えさせた。これが和歌山城の前身となるが,秀長自身は大和郡山にあり,和歌山には,家臣の桑山重晴を城代として置き,支配にあたらせたという。しかし,この桑山氏の支配は,秀長の家臣として城をあずかる程度のもので,領主として紀伊国を支配するものではなかった。そのため,天正年間に桑山重晴が発給した確実な文書は,和歌山にほとんど伝来していない。ところが,天正19年に秀長が死ぬと,桑山氏は城代から大名化したらしく,以後,慶長元年(1596)9月3日付桑山重晴田地寄進状淡島神社文書)をはじめとして,実効支配を示す文書がみられる。ともあれ,雑賀一揆の終焉,桑山氏の支配確立によって,和歌山の戦国の争乱は終わった。その後,秀吉が死ぬと間もなく,関ヶ原の戦が起こり,戦後,浅野幸長紀州37万5,000石を領して入国した。

 

〔近世〕
和歌山城と浅野氏
 慶長5年11月,浅野幸長関ヶ原の戦功により,紀伊国ほか37万石を拝領して入国した。父長政は,豊臣秀吉五奉行の1人として活躍し,秀吉没後隠退,関ヶ原の戦幸長とともに徳川方について戦功を認められた。甲斐国から入国した幸長は,近世大名として施策を強力に進めた。和歌山城の増修城下町の整備検地の実施など,江戸期を通じる治世の基礎は,浅野氏に負うところが大きい
(略) 
 城下町の範囲は,「諸事覚書」によって和歌川・真田堀川から西部,吹上寺町付近から北部,北は紀ノ川,西は海で限られる地域であったと考えられる。慶長12年フランシスコ会宣教師として大坂に滞在していたムニョスは,その報告の中で「この国の中心地であり,この領主浅野幸長の居城のある和歌山は,非常に美しく,二万近くの住民がいて家屋は美しい」と述べている。教会の建設を許可し,「キリシタンの善き友」と称された幸長の城下に対する讃辞であろうが,人口2万を擁する城下町であったことは,当時の繁栄を物語っていよう。
(略)
 同18年8月,幸長和歌山城中で病没し,嫡子がなかったため,同年10月,弟長晟が跡を継いだ。長晟は翌19年の大坂冬の陣に参戦,その機をみて蜂起した熊野の一揆を平定,元和元年(1615)の大坂夏の陣には和泉樫井大阪府泉佐野市)の戦で大功をたて,翌2年正月,徳川家康の三女振姫(正清院)を室とした。同5年安芸国広島の藩主福島正則改易のあと7月に安芸・備後42万6,000余石に加増転封され,紀州の地を離れた。

 

御三家紀伊徳川氏の成立
 元和5年8月,徳川家康の第10子頼宣は,駿河遠江三河50万石から転じて紀州へ入国した。紀伊国37万石余に伊勢国17万石余を加えて,ここに55万5,000石の御三家紀伊徳川氏が成立した。

 

 上記引用文にあるように、紀州藩浅野氏福島正則の改易広島城の無断改修を咎められて信濃国へ転封となった)に伴い、その後任として広島へ移ることとなりました。紀州藩であった浅野氏が積極的に城下町の整備を行ったことにより現在の和歌山市の基礎が築かれたということは間違いないものの、その期間はわずか2代、19年間であったのに対し、浅野氏が広島藩であった期間は12代、約250年間にも及ぶことから、どうしても「浅野氏」と言えば広島藩としてのイメージが強くなってしまうのはやむを得ないことなのでしょう。


 春姫は、その浅野幸長の次女として和歌山で生まれました。高田綾子氏は「尾張徳川家初代義直正室高原院(春姫)に関する一考察(「徳川林政史研究所研究紀要 第51号(徳川黎明会 2017)」で春姫の経歴について次のように記しています。

 高原院は、浅野幸長の次女として、慶長7年(1602)に和歌山に生まれた。母は池田道勝女である。諱は春子。通称は茶々阿古之方また安芸御前ともいったが、一般には春姫の名が最もよく知られていよう。徳川家康の九男で後に尾張家の祖となる義直と縁組し、元和元年(1615)に名古屋城本丸に入輿した。その後、寛永10年(1633)に江戸へ移住し、4年後の寛永14年に逝去した。36年の生涯であった。
研究紀要バックナンバー – 徳川林政史研究所 | 財団法人徳川黎明会

 

 春姫が輿入れした名古屋城は、徳川義直尾張藩となったことに伴い、その居城として徳川家康の命によって建築されたものです。この時期はまだ大坂豊臣氏が健在であったことから、この地に大規模な城郭を新たに建築することは、将来の豊臣氏との対決を想定した軍事拠点として、あるいは徳川の軍事力・財力を示す象徴的存在として、大きな意味があったものと考えられます。
 これについて、原史彦氏は「日本語日本文化学会秋季大会【令和元年十一月二十日講演録】 名古屋築城(「金城日本語日本文化 96号」(金城学院大学日本語日本文化学会 2020)」において次のように語っています。

 なぜ、こういった変則的な造りとしたかは想像の域でしかありませんが、象徴としての天守を住居目的とせず、御殿よりも先に造らせた上、西側に向けて建てる意図は、西側に対してその軍事力と巨大天守を造営したという経済力を見せつける必要があったためと考えます。西側への威嚇というならば、やはり大坂城豊臣家をはじめ、未だ面従腹背の疑いが残る豊臣恩顧の西国大名衆を意識したのではないでしょうか。高層建築が皆無だった濃尾平野において、台地上に屹立する巨大天守は、まさに徳川家の威信を象徴する偉容を示していたと思われます。
金城学院大学リポジトリ


 上記講演録によると、名古屋城天守が竣工したのは慶長17年(1612)12月のことで、三之丸諸門の竣工は同19年(1914)7月、そして住居である本丸御殿の竣工が同年末から同20年(1915)正月にかけてであるとされています。藩主義直春姫婚礼は同年4月のことですから、おそらく本丸御殿の竣工を待って輿入れの日程が決められたのでしょう。

 このように名古屋城の築城が豊臣氏への威嚇を目的としていたとされるのと同様、義直春姫との婚儀もまたその背景には軍事的・政略的な目的があったものと考えられています。これについて、公益財団法人徳川黎明会徳川美術館吉川美穂氏は「文化講演 尾張名古屋は城でもつ(「日本農村医学会雑誌 69巻」 (一般社団法人日本農村医学会 2020)」において次のように語っています。

 本丸御殿の完成と相前後して,家康豊臣家を攻めるため京都へ向かいます。世に言う大坂冬の陣です。守りの要である名古屋城の完成を待って出陣するあたり,いかにも用意周到な家康の人間像がうかがえます。
 難攻不落の大坂城を前に苦戦を強いられた家康は,大坂城の堀を埋める作戦をとり,その一方で淀殿と不仲にあった豊臣恩顧の大名たちと婚姻関係を積極的に結びました。その一つが家康9男の義直豊臣恩顧の大名である浅野幸長の娘・春姫との政略結婚です。翌20年4月には,義直尾張徳川家初代として初めて名古屋城に入り,春姫との婚礼が執り行なわれました。家康は婚礼を見届けると,すぐさま京都に向かい,大坂城を攻めるため戦陣を整えます。大坂夏の陣です。わずか2日で大坂城が陥落し,家康は勝利を得ました。関ヶ原合戦から15年,名古屋城の築城は着々と天下統一に向けて周到に準備を進めてきた家康の戦略の総決算の一つともいえます。
尾張名古屋は城でもつ

 

 上述の「角川日本地名大辞典」からの引用文にもあるように、春姫の父である浅野幸長はもともと父・長政とともに豊臣秀吉に仕えた人物ですが、秀吉の死後は細川忠興加藤清正福島正則らとともに石田三成と対立し、徳川家康の側につきました。その後、関ケ原の戦いでの軍功により紀伊国を与えられ初代紀州藩となりますが、慶長18年(1613)、38歳で亡くなっています。死因については病死とされているものの、京の公家・西桐院時慶(にしのとういん ときよし)の日記「時慶卿記」には「高台院(おね)片桐且元(豊臣家の重臣とが、東国で紀州の儀(幸長の死の原因)についていろいろと風評が立っていると話しあっていた」との記録があり、徳川方に謀殺されたのではないかとする噂が広がっていたようです。
38歳で死んだ浅野幸長 疑惑だらけの死 |BEST TiMES(ベストタイムズ)
京の公家も噂した浅野幸長の死 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

 また、Wikipediaによると義直春姫との縁組は幸長の逝去によりいったんは破談になったとの噂が流れたようです※1。結果的に祝言は行われることとなりましたが、その日程については紆余曲折があり、また祝儀に関しても徳川豊臣の間で微妙な駆け引きがあったようです。

 慶長20年(1615年)2月15日、尾張藩より成瀬正成竹腰正信が使いとして浅野家に来て、幸長の死で破談になったと噂されていた春姫義直祝言を4月に行うと告げた。しかし3月1日に祝言は6月に延期するという知らせが駿府家康のもとから来た。ところが、やはり4月に行うということになって、4月12日に婚儀が執り行われた。白銀2000両などが家康への持参金として支払われ、驚くほど豪華な婚儀であった。また14日には豊臣秀頼も祝儀として刀・呉服などを下賜した。これは大坂夏の陣が始まる直前であり、戦端が開かれる前に婚儀を行うか、開かれた後に行うか揉めたわけである。
浅野幸長#徳川家との縁組 - Wikipedia

※1 これについては浅野史蹟顕彰会編「浅野荘と浅野氏(浅野史蹟顕彰会 1917)」に次のような記述がある。
元和元年乙卯2月15日、来る4月祝言を擧ぐ可き旨、成瀬隼人正成 竹腰山城守政信より淺野家に申來る。是より先き、巷間に流言あり、婚儀既に破れたりと。當主長晟密かに憂惧す、然して此報に接するや、大に喜び、直に太田河内守重知を使者として秀忠に致し之を謝せしむ。国立国会図書館デジタルコレクション

 

 ともあれ、こうして行われた義直春姫婚儀は大変豪華なものであったようです。
 前述の「尾張徳川家初代義直正室高原院(春姫)に関する一考察」では、これについて次のように記しています。

 婚礼当日の様子を「源敬様御代御記録」は次のように記す。この時、高原院14歳、義直16歳である。
〔史料1〕元和元年(1615)4月12日条
(略)
一 春姫様 大御所様 白銀弐千両・御小袖十御差上、
      御亀方 白銀千両・御小袖十被進之
      此節御老中初江 七五三之御料理被下
 名古屋城へ入るまでの行程が具体的に記される。婚礼の詳細は明らかでないものの、家康や相応院(筆者注:お亀の方 家康の側室で義直の母)に対して白銀計3000両が献上されている。また「源敬様御代御記録」には記されないが、「尾藩世記」などによれば、 婚礼行列は侍女90余人、腰巻に青銅一貫文を深紅の紐に通した帯を身に着けた前駈中間100人、長持300棹という非常に豪勢なものであったという※2
研究紀要バックナンバー – 徳川林政史研究所 | 財団法人徳川黎明会

※2 先述の本丸ネットワークのWebサイトには「女騎馬武者43人、長持300棹、御駕籠50挺、長さ10数町にも及んだと伝えられる春姫の華麗な花嫁行列」との記述があるが、出典は不明。後世の資料になるが、上記※1で参照した「浅野荘と浅野氏」には「侍女乗物50挺、馬上の女43人、長持300棹、先駆には仲間の一行、錢一貫文づゝを眞紅の縄に繋ぎたるを肩に掛け、100人歩行す。其後に乗物道具等續く。」とある。
春姫道中とは - 本丸ネットワーク(旧名古屋城文化フォーラム)
国立国会図書館デジタルコレクション


 かつて名古屋では「娘が3人いれば家が傾く」と言われたほど、嫁入りに多額の費用がかかると言われていました。

gazoo.com

 こうした名古屋の嫁入りに関する風習は、1989年から1998年にかけてフジテレビ系列で全10作が放映された「名古屋嫁入り物語」によって全国に知られることとなりました。このドラマは連続物ではなくそれぞれ単発の2時間ドラマとして制作されたものですが、いずれも愛知県出身の植木等山田昌が新婦の両親を演じ、多額の費用をかけて名古屋流の結婚式を行う上で様々なトラブルが発生しつつもそれを解決して大団円となるというコメディで、各作品とも関東で20%前後、名古屋では30%前後の高視聴率を獲得しました。
名古屋嫁入り物語 - Wikipedia

 「名古屋の嫁入りには多額の費用がかかる」ことの理由ははっきりしていないようですが、一般的にはこの「春姫の婚礼行列」をルーツとするという考え方がよく知られているようです。ちなみに、日経電子版に掲載された「大ナゴヤを行く 婚礼用トラック・菓子まき…尾張のハデ婚、最新事情」という記事によれば、専門家は「春姫が名古屋の豪華な結婚式のルーツであるのは否定も肯定もできない」と回答しているようです。

 今からおよそ400年前の1615年。尾張藩初代藩主徳川義直と、和歌山藩だった浅野幸長の娘、春姫の婚礼が開かれた。今では毎年、姫や武将姿などにふんした行列が名古屋市中心部を練り歩く「春姫道中」が催され、名古屋の婚礼と言えば、春姫の婚礼を思い浮かべる市民は少なくなく、ハデ婚のルーツは春姫と思う人もいる
 当時の様子は、義直の時代の出来事をまとめた尾張徳川家の記録「源敬様御代御記録(19世紀成立)などから、わずかながらうかがい知ることができる。
 嫁入りがあったのは旧暦4月12日。嫁入り行列は熱田から本町通を通って、名古屋城本丸に入った。時刻は戌の刻(午後7時から午後9時ころ)。「当時は大事な儀式は夜に行われていた。婚の(つくりの)昏には暗いという意味がある」と徳川美術館並木昌史学芸員は解説する。夜の行列だけに、たいまつをかかげた行進とみられ、並木さんも「当時の名古屋の人の目を引いたのは間違いないだろう」と推測する。
 春姫から義直の父、徳川家康白銀2000両小袖10領義直の生母、お亀の方白銀1000両、小袖10領が献上されたとの記録も残り、嫁入りにも多額の費用がかかっていたようだ。
 名古屋の婚礼につきものの豪華な嫁入り道具。尾張藩の婚礼では2代・光友正室千代姫のものが、国宝として現在でも残る。初音の調度ともよばれ、すずり箱や長持ちなどが源氏物語の初音の帖の情景を蒔絵(まきえ)であしらわれている。
 実際の春姫の婚礼はどうだったのだろうか。並木学芸員は「現在に残っている記録が少なく、春姫が名古屋の豪華な結婚式のルーツであるのは否定も肯定もできない」と語る。
婚礼用トラック・菓子まき… 尾張のハデ婚、最新事情|NIKKEI STYLE

 

 春姫寛永10年(1633年)に江戸へ移るまで名古屋城(最初は本丸御殿、後に二の丸御殿)に居住したとされますが、その後大名の妻子は原則として江戸に住むことが義務付けられたため、実際に名古屋城で暮らした藩主夫妻は義直・春姫のみであったようです。冒頭で紹介したように、本丸御殿復元事業のシンボルとして春姫が着目されたのはこうした歴史的背景もあったのでしょう。
 その本丸御殿のうち、藩主が身内や家臣との私的な対面・宴席などに用いたとされる「対面所」は義直春姫の婚儀が行われた場所でもあると伝えられており、ここには春姫の故郷である和歌山の風景を描いた障壁画が並んでいました。これらの障壁画は戦災を免れて保管されていたため現存しており、これを復元模写したものが再建された本丸御殿において常時展示されています。その一部は下記のリンク先で紹介されていますが、これによれば紀三井寺塩釜神社玉津島神社製塩片男波和歌浦天満宮城下の賑わい等が描かれているようです。
第二期工事 名古屋城本丸御殿「対面所」「下御膳所」公開 - 本丸ネットワーク(旧名古屋城文化フォーラム)

 

 また、平成27年(2015)は春姫尾張に嫁入りしてからちょうど400年にあたる記念の年であったことから、その前年の12月には第20回春姫道中で春姫に選ばれた山田梨紗子さんが和歌山城を訪れて「400年目の里帰り」の行事が開催され、平成27年(2015)には仁坂和歌山県知事尾花和歌山市第21回春姫道中に参加して大村愛知県知事河村名古屋市とともに隊列の出迎えを行いました。
わかやま新報 » Blog Archive » 春姫400年目の里帰り 6日和歌山城
ふり返り「第21回春姫道中」 - 本丸ネットワーク(旧名古屋城文化フォーラム)


 紀州尾張、というとどうしても紀州藩から8代将軍になった徳川吉宗名古屋藩第7代藩主徳川宗春とのライバル関係(質素倹約を旨とし、享保の改革を行った吉宗に対し、宗春は派手好みで城下に芝居小屋や遊郭などの遊興施設の開設を許可するなど現在で言う自由主義経済施策を行った)に注目が集まりがちですが、それより前の時代にはこのような蜜月関係があったということも知っていただきたいものです。
日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒 徳川吉宗VS徳川宗春 BS-TBS

 

 そういえば、名古屋名物として知られる「きしめん(平打ちうどん)」の語源には「紀州の者が作った“紀州めん(きしゅうめん)”がなまって“きしめん”となった」との説もあるようで、もしかするとその背景には春姫紀州から尾張へ連れて行った料理人がかかわっていたのかもしれません。

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