生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

華岡青洲 ~那賀町(現紀の川市)西野山~

  車一台がどうにか通れるほどの、曲がりくねった道をたどると、生垣に囲まれた小広い一角に出た。
 「ここが生家跡です。墓はすぐそこです」

 

  町役場の職員の説明を聞きながら、見上げた碑は雄大だった。表に「華岡家発祥之地」。そこから約100メートル。小さなタメ池のほとりに、華岡家の墓地があった。他の墓石より、ひときわ大きい碑には「天聴院聖哲直幸居士」。


 青洲天保6年(1835)10月2日、76歳で天寿を全うしたという。 その生家を訪ねて、粉河町へ入った。数十年前に移築したというその家は、縮小したとはいっても、間口九間(16.2メートル)、奥行き五問(9メートル)。母親と妻を試験台に、世界ではじめて麻酔薬による手術に成功したという青洲。かつての手術室も、調剤室も、病室の多くもなくなってはいたが、そのどっしりとした構えは、青洲の息吹きを伝えているようだった。

 

(メモ:生家跡は国道42号線から県道中尾名手市場線へ入って、野垣内バス停前を東へ。生家は、バス停近くの県道泉大津粉河線を西へ約1キロ。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

f:id:oishikogen_fumoto:20200909161715j:plain

春林軒
  •  華岡青洲生家跡は、現在、「華岡青洲顕彰施設 青洲の里」として復元整備されている。青洲が住居兼診療支所兼医塾として建築した「春林軒(しゅんりんけん)」の主屋は、大正時代に一旦粉河町に移築されていたが、平成9年(1997)に現在地に戻されて青洲当時の姿に復元されている。現在の春林軒は、主屋と蔵は青洲が用いた当時の建物で、その他の建物は調査資料に基づいて新設されたものである。同施設は「道の駅」としての機能も有しており、「フラワーヒルミュージアム」内には、華岡青洲の遺品や資料を展示した展示室、ふるさと物産ショップ、レストランなどが設けられている。
    華岡青洲顕彰施設 青洲の里へようこそ!

 

  • 青洲の里」の北側には、「華岡青洲記念公園」と「華岡家墓地」がある。華岡家墓地の入り口には、仁井田好古(にいだ こうこ/よしふる、江戸時代後期の紀州藩儒学者で「紀伊風土記」の編纂者)撰文による華岡青洲碑銘が建立されている。

 

 

  • 青洲は、父・華岡直道の跡を継いで医師になるため23歳のときに京都へ遊学したが、このとき古代中国の医師・華佗(かだ、生年不詳 - 203)が「麻沸散」と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行なったということを知り、麻酔薬の開発を志した。
  • 京都から帰郷した青洲は診療のかたわら麻酔薬の研究に努めるが、華佗が用いたとされる麻沸散の処方は不明であったため、様々な生薬を調合して実験を繰り返した。このように実験により新薬を開発するという手法は当時としては非常に新しいものであった。詳細な研究経緯は残されていないものの、長年にわたり動物実験を繰り返した後に、自らの母・於継(おつぎ)や妻・加恵(かえ)らを被験者として人体実験を行ったとされる。人体実験は何度も繰り返され、その間に於継は死去(死因は不明だが、麻酔薬の影響と伝えられる)加恵は失明、という痛ましい結果を生じさせたが、後には自らも被験者となって研究を続け、ついに麻酔薬「通仙散」を完成させた。

 

  • 母、妻を被験者とした人体実験を通じて麻酔薬を開発した経緯は、有吉佐和子が昭和41年(1966)に発表した小説「華岡青洲の妻」によって多くの人々に知られることとなった。世界初の全身麻酔手術の偉業とともに妻と母との「嫁姑対立」を描いたこの作品は大変な人気を博し、小説のみにとどまらず映画、テレビドラマ、舞台などでもたびたび取り上げられている。近年では、平成30年(2018)に、「平成30年 松竹新派特別公演」として水谷八重子(於継)河合雪之丞(加恵)喜多村緑郎 (青洲)らによって上演された。
    華岡青洲の妻 - Wikipedia

f:id:oishikogen_fumoto:20200909161756j:plain

人体実験イメージ(春林軒内展示)
  • 文化元年(1804)、青洲は通仙散を用いて世界初の全身麻酔下手術を行った。患者は大和国五條(現奈良県五條市藍屋利兵衛の母・(60歳)で、乳癌を患っていた。当時、欧州では乳癌の摘出手術が行われていたものの麻酔が無かったことから患者への負担が非常に大きく、また日本では乳房を取り去れば命を失うと言われていて、いずれも手術が有効な治療法とは考えられていなかった。青洲が行った手術は全身麻酔を行うため患者への負担が比較的軽く、また自らが考案したメスやハサミを用いて癌の部分だけを摘出するというものであったことから、勘は手術から二十数日ほどで故郷五條へ帰ることができたという。
  • 勘は、残念ながら手術から4か月後に亡くなるが、これは既に癌が末期近くまで進行していたことによるとされ、手術自体は成功していたものと考えられている。また、松木明知弘前大学名誉教授)の調査によれば、青洲が手術した乳癌患者152名中で死亡日が判明している33名について、手術後の生存期間は最短8日、最長41年で、平均すると2~3年であることが判明している。これは、当時は相当程度進行した後でなければ手術対象とならなかったことを考えると、非常に優れた成績であるとされる。
    華岡青洲の乳がん手術|和歌山県立医科大学附属病院紀北分院

  • 青洲の弟子であった本間玄調の記録によると、通仙散の配合は「曼陀羅華(まんだらげ)八分、草烏頭(とりかぶと)二分、白芷(びゃくし)二分、当帰(とうき)二分、川芎(せんきゅう)二分」とされる。しかし、原料として用いられる生薬には毒性があり、使用には危険を伴うことから、この配合は「秘伝」とされた。
    通仙散 - Wikipedia

 

  • 全身麻酔手術の成功を受けて、青洲のもとで学ぼうと多数の指導希望者が訪れた。青洲はこれらの者を育成するための医塾として「春林軒」を設けて生涯に1000人を超える門下生を育て、多くの優れた外科医を輩出している。前述の本間玄調もその一人であるが、後にその著作の中で通仙散をはじめとする秘術を無断で公開したとして破門されている(現在では、この著作が青洲の業績を知る貴重な資料となっている)
    本間棗軒 - Wikipedia

 

  • また、和歌山県立医科大学の構内には「活物窮理」という石碑がある。これは、青洲の医療に対する考え方を示した言葉である「内外合一 活物窮理(ないがいごういつ かつぶつきゅうり)」をもって同大学の理念としたものである。「内外合一」とは「外科を行うには、内科、すなわち患者さんの全身状態を詳しく診察して、十分に把握した上で治療すべきである」という意味を表し、「活物窮理」とは「治療の対象は生きた人間であり、それぞれが異なる特質を持っている。そのため、人を治療するのであれば、人体についての基本理論を熟知した上で、深く観察して患者自身やその病の特質を究めなければならない」という意味を表すとされる。
    華岡青洲の記念碑|和歌山県立医科大学附属病院紀北分院

*****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。