津荷漁港から古座寄りの「津荷の鼻」を回った広い荒磯に、悲恋に散った兄妹の話が残る。
延元元年(1336)6月。足利方の石堂義慶は、南朝についた西向村(現、古座町)の小山実隆に破れた。このため義慶の子の守親と梢の二人は、家来の勘九郎に連れられて津荷の里に落ちのび、人目を避けて別々に育てられたのだが、これが悲劇のもと。
勘九郎が死の直前、二人は兄妹であることを伝えたが、美しく立派に成長していた二人はすでに愛し合う仲。世をはかなんだ末に姿を消した。ほどなくして磯の岩礁に二つの人魂が見られ、漁師たちはこの磯近くへ寄るのを避けたという。その後、磯の手前の石切岩に二つの塚が建立され里人たちが供養をしたというが、いまはその塚はなく、話を伝える人もめっきり少なくなった。
(メモ:国鉄紀勢線古座駅下車、新宮行きバスで津荷下車。国道42号線から約10分。波は荒いが、伊勢エビやアワビがよくとれる。)
勘九郎磯(津賀)
古座街道から津賀の鼻を迂廻した所、断崖の突端は広い広い磯で絶えず滔々と波の昔をたてている。ここは俗にカクロが磯と言っているが、昔は勘九郎磯と云ったそうである。広い海、島と山の趣のよいその浦辺には黒潮が絶えず押し寄せている。ここにも情調に満ちたローマンスが育くまれている。それは哀艶悲痛な「おたえ」にかかる情話である。
「おたえ……十八……花なら盛り、盛る色香の年頃は……」と歌われた、見るからにこの漁師町には珍しい美しい女であった。家は津賀の村はずれの磯近い所にあって、寒村に咲いた紅梅一輪にも譬(たと)えん「おたえ」の姿は、如何に近郷近在の若い衆の血を湧かせた事であろう。今でこそ大辺路街道も開けて、村の家も数十戸の多きには達しているものの、その頃はわずかに数戸の漁村で……いそな漁る……蜑女(あま)生活の詫びしい在所であった。
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村の少女の心を浮き立たしめた春は去って、津賀浦の磯には早や鮑(あわび)狩る夏半ばとなった。十五夜の夏の月も冴えて涼しい夕暮れ。漁に出た父の勘九郎の帰りを迎うべくお妙は磯伝いに……答志の岩に腰をおろして往き来る舟の辺に心を奪われていた。夏の夕は波の音に送られる風も涼しく、絵の様な美しい浦……さも美しい……おたえの姿は又なく綺麗に彩られて磯辺に狩る村の若い衆の目をそばだてしめた。
「オヤ……おたえさんじゃねーか」突然呼びかけたのは村の青年中でも篤学で親孝行者だと評されていた上野清七であった。……今しがた磯から上ったと見えて破れた襦袢の裾からはボタリボタリと雫がしたりつ落ちていた。
「あれ清ちゃんかい。何時も精の出る事ね。」彼女は常に清七の男らしい活溌なキビキビしたその姿と言行には一種の懐しさと敬虔を持っていた。村の若い衆の集会、その都度演壇に立って條理ある演説によって村の長老達を感服させたのも清七であった。
「まだお父さんは帰らない - 待ち遠だね」清七は腰をおろそうとして何か思い出した様に……やっぱり……己れも独りの母を持った身だ……「たえさん……さようなら……」清七は我が家へ帰って行った。
清七は独りの母に……おたえは独りの父の愛によって……恰も似たさびしい境遇に置かれて居たのであった。しかもその家が隣り合わせであった。だから幼いからの友達であり少なくとも近隣の愛を以て、禍福を伴に、泣きもし又笑いもした。けれども二人の間には兄と妹より稍々温かい……情は動いていたろうが物固い父母に養育された二人の間は誠に純なものであった。
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けれども蜑女(あま)娘の痴話が平気に物語られるこの里に……この二人の美しい恋も土地の娘と同じ様に醜い噂をたてられるのであった。
その後、清七の母は偶々風邪の気分で打ち臥したが、その病気が原因をなして遂にその月の末、七十二歳を最後にこの世から去らなければならなかった。
清七は独り取り残されて寂しい生活をおくらなければならなかったが、唯一……清七の淋しさを慰さめ、又生活を助けたのはおたえの父とおたえであった。その後、又おたえの父は病気に罹って日に日に重っていった。おたえと清七は力を盡し介抱したが八十七歳を一期としてこの世から去ってしまった。その臨終に際しておたえの父の勘九郎爺は二人を病床近く招いて、
「もう私もこの世の中に縁がなくなった。お前達二人を見捨てて先立つ罪をゆるしてくれ 実は今日までお前達の素情を明かさなかったが……マア聞いてくれ 何を隠そうお前達は兄妹だよ。頃は去る延元元年の六月だった 西向村の小山家が南朝の為に兵をあげ尊氏の族 石堂義慶や熊野法眼の兵を田原沖にて要撃した時、その敵将石堂の兵船が小山氏の為に破られあはれや船は転覆して将士悉く戦死を遂げたが、その中に上野豊後は石堂の兄妹ふたりを僅かに身を以て助け、巧みに敵手をのがれて船とともに流れ着いたのがこの津賀の浦であった。今思い出せば誠に夢の様である。わしは其の上野豊後の長男勘九郎で、父の遺言によって主命をつぐ為に小山高瓦殿の目を避けて今日まで御身達を見まもりしていた。清七、おたえとは別の名 本名は石堂左兵衛、梢殿に相違ござらぬ 今とても領主の手前遠慮せねばならぬ御身達 強い蜑女にしたてて浄き艱難の永の生活、われこの世をさりし後は兄妹力を合せて主命の回復をつとめ、ゆめゆめ油断あるな」と言い残してこの世をさって終った。
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恋憧れの的となろうとしたおたえは妹であった……よい殿御と思った男は兄であった。二人は夢からさめた如く打ち驚くと共に勘九郎の死をいたく悲しんだ。
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両性から醒めた幻滅の哀感に加うるに生くるに狭い敵国の遺子である事を知った二人は、勘九郎爺の死を悲しむと共にいたく現在を悲観せざるを得なかった。「父母は敵国の将 地は皇国の地 又兄妹に一人の頼るべきものがない」そうした落寞な哀愁は常に此可憐な兄妹の心を痛ましめた。
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家々を繞(めぐ)る虫の声に……山河もみな物のあわれを感ぜしむる秋の半ば、突然勘九郎磯の岩礁に二つの火の玉が流れた。村の人々は何事がおこったかと駆けつけたが何事も怪現なものは無かった。しかしこうした事が二夜続いた。その最後の夕、その二人兄妹は忽然としてこの村から何れかへ姿をけしてしまった……村の人達は勘九郎磯の人魂は兄妹二人の霊であると云いふらした。そして名主の濱地左門の特志でこの二人の霊を弔うべく二基の塚が立てられた。それから後勘九郎磯に鮑を漁る蜑女で……海に入る物に一人として返ってくる者が無かったのでカグロ磯の名と共に怪奇な伝説を生んで、今でも荒波はげしいこの磯辺に誰あって近づくものがなくなった。
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かの巨浪……その岩礁のすさまじさはこの二人の怨恨が永劫に咀はしく奏でる交響楽となった。
(筆者注:読みやすさを考慮して歴史的かなづかいや漢字の旧字体を適宜現代のものに改めた)
- 和歌山東漁業協同組合津荷支所のWebサイト内にある「津荷地区の歴史・文化」というページで「源九郎島と地蔵さま」という民話が紹介されている。上記の話とは若干差異があるものの、ほぼ同じ内容となっている。(文中「元和三年(1617)」とあるのは「建武三年/延元元年(1336)」の誤りと思われる)
民話「源九郎島と地蔵さま」
田原沖海戦で西向の小山実隆の水軍に敗れた足利方の石堂義慶の家臣で落武者の一人平九郎という男が家族をひきつれて津荷へ逃れてきました。
家族で固まって住むと落武者と見破られると思い、息子の源九郎を村の漁師に預けました。
平九郎も百姓に身をやつして長い間、一同無事に暮しているうちに自分の娘菊も年頃のきれいな娘となり、預けた源九郎も誰からも愛される目鼻立ちのはっきりした好青年に成長しました。
年頃の二人は人もうらやむ相思相愛の仲となり、海岸を散歩しながら語りあっていたとか。
もちろん二人は兄弟とは知るはずもなく青春を楽しんでいたが、それを眺めて父平九郎は、とても心を痛めました。
どのようにうちあげるべきかと迷っているうちに病気になり自分の寿命がないと悟った時、菊を枕もとによんで「人に知れては悪いと思って内証にしていたが、実はお前と源九郎は兄妹なのだ。」と言って息をひきとりました。菊は悲しくて源九郎の家に走りこみ、父の遺言を話しました。
源九郎は「兄妹なら一生結婚することはできない。なんて皮肉な運命だ、もうこれ以上生きていることはできない。二人で死のう。」と言って菊をつれて石切岩のずっと沖にある島で若い命を断ちました。当時、漁師がこの島の近くを通ると二人の亡霊が出て漁師を苦しめるので漁師達はこの島を源九郎と呼び、とても恐れたということです。
亡霊が出るのは二人の愛が実らなかったため、心のこりで成仏できないんだろうと考えて石切岩に二人の供養の地蔵さまをつくりました。現在地蔵は残っていません。
いたずらな子どもたちにこわされたとも言われていますが、二人が成仏できたのでなくなったのかもしれません。この話は元和三年五月、足利尊氏配下に石堂義慶が西向の小山実隆と荒船沖に海戦して敗れた時の実話に基づくものです。
- 石堂義慶(いしどう ぎけい)は、南北朝時代の武将・石塔義房(いしどう よしふさ 「石堂」と表記されることもある)を指す。「義慶」は義房の法名。以下に「日本大百科全書(ニッポニカ 小学館)」の解説を引用する。
石塔義房
生没年未詳。南北朝時代の武将。入道して義慶(ぎけい)、のち秀慶(しゅうけい)と号す。足利氏庶流 石塔頼茂(よりもち)の子。建武政権下に駿河、伊豆両国守護代となり、足利尊氏が幕府を開くと両国守護となった。1337年(延元2・建武4)奥州総大将として発向し、南軍追討に努めたが、45年(興国6・貞和1)罷免された。そこで足利直義党となり、高師冬の擁した足利光王(みつおう)(基氏)の奪還に功あり、伊豆守護に還補された。しかし51年(正平6・観応2)末、東下した尊氏に敗れ、翌年直義の死後は南朝方となり、新田義興らとともに一時鎌倉を占領した。ついで北国の新田義宗、桃井直常らに呼応して駿河に挙兵し、嫡子頼房(よりふさ)らとともに53年(正平8・文和2)入京したらしいが、その後の動静は明らかでない。
- 「西向村の小山実隆」とは、鎌倉時代から南北朝時代頃に熊野水軍の雄として活躍した武士集団「紀州小山(こやま)氏」のうち、古座川河口部に拠点を置いた「西向小山氏」の始祖である小山實隆を指す。伝によれば、下野国(栃木県)を支配していた小山(おやま)氏の7代当主小山貞朝の子、小山経幸(日置川流域に拠点を置く)・實隆兄弟が、元弘元年(1331)に鎌倉幕府の命を受けてこの地に移住したことが「紀州小山氏」のはじまりとされている。後に、小山経幸は日置川流域の久木地区に拠点を置いて久木小山氏と呼ばれるようになり、小山實隆は古座川河口部の西向に拠点を置いて西向小山氏となったと伝えられる。しかしながら江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊続風土記」の「西向浦」の項によれば、延元年間(1336 - 1340)の文書で小山實隆が「熊野上綱(熊野別当に代わって熊野三山を統治する有力豪族)」を名乗っていることから、移住からわずか5年余で「上綱」の地位に就くことは考えられず、古くからの那智山の社家(神職の家柄)だったのではないかとしている。
参考:武家家伝_紀州小山氏
当地域(筆者注:串本町周辺地域)の鎌倉時代中期から南北朝期は、那智山尊勝院の一族である潮崎氏が小山氏と結び串本町一帯に勢力を伸ばすが、南北朝期には小山氏が古座を本拠に活躍し、延元元年(1336)には潮崎氏や色川氏と連合し足利尊氏一族の石堂義慶の軍勢を潮崎浦で破っている。
発掘調査報告書|公益財団法人 和歌山県文化財センター
- 那智勝浦町にある温泉旅館「ホテル浦島」は、洞窟温泉「忘帰洞(ぼうきどう)」で全国に知られている。ここは淤泥岩(おでいがん シルト)層の破砕帯が熊野灘の荒い風波に浸食された間口25メートル、奥行50メートル、高さ15メートルの天然洞窟内に湧出した温泉であるが、伝承によれば、上記の戦において石堂義慶が軍船を率いてここに立籠もったとされていることから、「将石洞」の異名がある。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。