生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

お照と長者どん ~かつらぎ町天野~

 高野山に「貧者の一灯」という話が残る。千年杉に囲まれた奥の院灯篭堂の、入って正面右手。高さ1メートル、直径50センチばかり。


 献じたのは、和泉国坪井の里(現、岸和田市の農家の一人娘、お照。両親の菩提を弔おうと、丈なす黒髪を売り払い、ようやく買い求めて寄進した一基。11世紀はじめ、平安中期のころとか。

 それは、同じころに紀州の長者が寄進した五万基もの灯ろうに比べれば、はるかにみすぼらしかった。だが、吹き荒れる大風にも消えることなく、いまもあかあかと灯り続ける。

 パターンは、よくある孝行ものの類。だがその底辺に流れるのは、身を捨てて尽くす真心の美しさ、人生いかに生くべきか~を説く人生訓だろう。

 

 かつらぎ町天野は、お照終えんの地といい、ひっそりと墓が建つ。丹生都比売(にゅうつひめ)神社にも近い。

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

お照の墓(地図中央付近)

 

  • 一般に「長者の万灯より貧者の一灯(金持ちの多くの寄進よりも、貧しい者の心のこもったわずかの寄進のほうが功徳が大きい)」として知られる物語である。和歌山県が運営するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」には、「貧女(ひんにょ)の一灯(いっとう) 長者(ちょうじゃ)の万灯(まんどう)」として次のような物語が掲載されている。

貧女の一灯 長者の万灯

出典:かつらぎ町今むかし話
発行:かつらぎ町

 昔、和泉の槇尾山(まきおさん)のふもと横山村に、奥山源左衛門(おくやま げんざえもん)お幸こう)の夫婦が住んでいました。
 子宝に恵まれるように、いつも槇尾山のお寺にお参りしておりました。
 ある日お寺からの帰り道、幼子の火のついたような激しい泣き声を不思議に思った夫婦は声をたよりに進んで行きました。
 辻堂の軒下に、浪人の網笠の中に紅葉のような手を振りながら、声をかぎりに泣いているではありませんか。
 夢中でかけ寄った二人は、子どもを抱き上げると、立派な絹の小袖に美しい短冊が添えてありました。

  千代までも ゆくすえをもつ みどり子を
            今日しき捨つる そでぞ悲しき

 このとき、乳飲み子を捨てる切ない親心を悟った夫婦は、(きっと仏様が授けてくださったんよ)と喜びました。
もし親御さん、わが子を見たくなったら、横山村をたずねて来てくださいよ。」と、槇尾山に向かって手を合わせました。
 夫婦は、子どもに「お照(てる)」と名付けて大事に育てました。

 

 月日の経つのは早いもの、小さかったお照はすくすくと美しく育ち、村一番の優しい娘になりました。
 お照が十六歳になったとき、ふとしたことから両親が病の床につきました。お照の心のこもった手厚い介抱も空しく、母が亡くなりました
 間もなく、父も後を追うようにこの世を去りました
 父が息をひきとる前に、お照を枕元に呼んで、その生い立ちを話して聞かせ、実の親の形見を渡しました。相次いで両親を失ったお照は、一人ぼっちの寂しさ、悲しみに暮れていました。
 やがて、お照は育ての親の心を有り難く思うようになりました。

 

 お照は、両親のあの世の幸せを祈るため、冥土の道を照らすという灯を、高野山の「奥の院」にお供えしようと決心しました。
 けれども、貧しい暮らしのお照は、手元に灯籠を買うだけのお金は少しもありませんでした。お照は色々と考えたすえ、女の命とまでいわれる黒髪を切って、お金に替えることにしました。
 そのお金で小さな一つの灯籠を買い求めました。
 お照は形見の品と両親の位牌と一緒に、灯籠を持って高野山へ向かいました。
 ようやくたどり着いた神谷(かみや)の里で、お山の女人禁制の掟を聞かされました。
 一心に思いつめてきたお照は驚いて、途方に暮れました。今までの旅の疲れがどっと出て、その場にうずくまってしまいました。ただ、涙だけがとめどなく、頬を伝っていました。

 

 そのとき幸いなことに、高野山から足早に下りてきた若いお坊さんに助けられました。夢のお告げで一人の娘のことを知らされて、急ぎ駆けつけて来たのでした。
お照はお坊さんとともに女人堂まで上り、嬉し涙で頬を濡らしながら、灯籠を渡しました。

 

 やがて、「奥の院」のお祭りの日、新しい一万個の灯籠に灯がともされました。厳かなお経の声に包まれて、長者は今までに誰もできなかったありがたさに、満ち足りた気持ちで一杯でした。
 長者は、ふと万灯に目をやったとき、見知らぬ一灯に気付きました。
あの小さな灯籠は、誰のものか。
と、僧にたずねました。
あれは貧しい娘が捧げました。
と、聞いた途端、
卑しい女の明かりが何になろう。
と、立ち上がろうとしました。
 するとにわかに風が吹き込んで、煌々と輝いていた万灯がぱっと消え、お堂の中は真っ暗になりました。
 その暗闇の中に、静かに光る一灯がありました。
 両親の菩提を祈り、乙女の命の黒髪で納めたお照のともしびでした。
 この不思議な出来事に、長者は自分の行いを心から恥ずかしく思い、両手を合わしました。

 

 それから、お照のともしびは「貧女の一灯」として、長い長い年月を一度も消えることなく、今もなお「奥の院」の大きなお堂に清い光をはなっています。
 その後、お照は長者の世話により、天野の里に庵をつくり、尼となりました毎日まことの祈りを捧げるお照は、いつしか天野の里人にも親しまれるようになりました。

 

 ある年の冬、粉雪が舞う朝、お照慈尊院(じそんいん)への道すがら、行き倒れの老人を見つけました。
 お照は、
御仏に仕える者です。どうぞ、庵においでください。
と、抱き起こしました。
 すると老人は、
かたじけない、どうかおかまいなく………。
 人の情にすがることのできない、罪深い男でござる。
 このたび高野山へ登り、お大師様のもとで一生を送りたいと、ここまで参った。
 どうか、懺悔話をお聞きくだされ。
 老人は長い旅の間に妻に先立たれ、困り果てたすえ槇尾山のふもとで、わが子を捨てたことを話しました。じっと聞いていたお照は、のいまわの際の話を思い出しました。
もしや、このお方がお父上様では………。
と、はやる心をおさえながら、あの短冊の和歌を静かに読みました。

  千代までも ゆくすえをもつ みどり子を………

そ、その和歌を知っているあなたは、照女(てるじょ)………。
………お父上様………。
 両手をにぎる父親は、このふしぎな巡り合わせを涙を流して喜びました。
 その後、老人は高野山で僧になり、お照天野の里で穏やかな祈りの一生を送りました。
 かつらぎ町天野では今もなお、お照の墓庵の跡父母の墓石の伝説が、ゆかしく語りつがれています。

※読みやすさを考慮して、ひらがなを漢字に改めるなど表記の一部を変更した。

かつらぎ町:貧女(ひんにょ)の一灯(いっとう) 長者(ちょうじゃ)の万灯(まんどう) | 和歌山県文化情報アーカイブ 

 

  • この物語の原典とも言うべき話が、仏教の経典のうち、「阿闍世王授決経」や、「賢愚経」の「貧女難陀品」にある。類似した話であるが、「阿闍世王授決経」によるとその概要は次のとおりである。

 釈迦がまだ存命の頃、マガダ国の国王・阿闍世王(筆者注:あじゃせおう)は、釈迦への施しとして祇園精舎(筆者注:釈迦が説法を行ったとされる寺院)100石(2~3キロリットル)の麻油を届けさせ、多くの灯明が灯された。これが「長者の万灯」である。
 王の善行に感激した村の貧しい女は、自分も何かしなければと、乞食をして得た僅かのお金で少しばかりの油を買って灯明を灯し、どうか消えないようにと願って帰路についた。
 その夜は風が強く、王の施した無数の灯明は朝までには消えてしまうか油が切れて燃え尽きてしまった
 しかし、貧女が捧げた一灯は朝まで消えることなく、油も尽きることがなかった
 釈迦は、弟子の目連に、明るくなったので灯明を消すように命じたが、いくら消そうとしても消えることが無かった。
 それどころか火はますます大きくなるばかりで、ついには三千世界をことごとく照らすまでに至った

 

 釈迦は目連に
この女性はすでに過去生において180億の仏を供養し、経法にて人民を教え導いてきたが、布施だけは修行するいとまがなかったので今生では貧窮しているだけだ。
 三十劫(筆者注:「劫」は時間の単位で果てしなく長い時間の意、ヒンドゥー教では1劫=43億2000万年である)の未来に功徳が満ち成仏した折には、この女性は須弥燈光如来という名の仏になっているだろう。
と説法した。

 

 これを聞いた貧女は歓喜のあまり百八十丈も跳び上がってから、釈迦の足元に頭を付ける礼をして立ち去った

※参考:高野山真言宗大師教会金剛支部Webサイト
長者の万灯より貧者の一灯 | 高野山真言宗 やすらか庵

 

  • 燈籠(灯篭)(とうろうどう)は、弘法大師御廟の拝殿として建立されたもので、弘法大師入定の翌年(承和3年 836)に弘法大師の弟子の実恵真然大徳が方二間の御堂を建てたのがはじまりとされる。その後、藤原道長によって治安3年(1023)に現在に近い大きさの燈籠堂が建立された。堂内には参拝者が寄進した燈籠が多数あり、現在では一万基を超えるとされている。このうち千年以上燃え続けていると言われる「消えずの火」が2つあり、一つが白河上皇が献じた「白河灯」、もう一つが高野山の中興上人とも呼ばれる祈親上人(きしん しょうにん)が献じた「祈親灯」である。この「祈親灯」が別名「貧女の一灯」または「貧者の一灯」と呼ばれている。 
  • 白河灯」は寛治2年(1088)に白河上皇が献じたもので、記録では30万灯が献じられたされ、俗に「長者の万灯」と呼ばれる。
  • 祈親灯」は祈親上人(本名は定誉(じょうよ) 958 - 1047)が長和5年(1016年)に献じたもので、はじめて高野山に上った上人があまりの荒廃ぶりに悲嘆し、御廟前の青苔を集めて復興を誓願しながら火打石を打ったところたちまち炎が上がったため、この火を献上したものとされる。「祈親灯」が「貧者の一灯」と呼ばれることについて、「高野山語り部」のWebサイトでは「祈親上人の勧めで貧しい生活の中、自分の髪を切り売って工面したお金で、献灯した」ことによるものと解説している。
    ※参考:ぐるりん関西 燈籠堂 燈籠堂

 

 

  • お照の墓は、丹生都比売神の北東約250メートル。お照はここに庵を結び、養父母の菩提を弔いつつ生涯を終えたと伝えられる。その後、天和2年(1682)に妙春尼(みょうしゅんに)によりお照の実父母の供養塔が建立された。また貞享5年(1688)には、天野に住む浄意(じょうい)という僧が、女人に代わってその苦しみを受ける「代受苦の行(だいじゅく の ぎょう)を終えたという旨の碑が建立された。これはお照の墓のそばにあることから、お照の供養を兼ねて建てられたものと考えられている。さらに、この碑の上にはお照の実父母の墓と伝えられるものが残されている。
    ※参考:天野の里づくりの会 天野の里 史跡の紹介

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。