生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

薬王寺の牛 ~和歌山市薬勝寺~

 天平というから、いまから約1250年も昔のこと。ある日、この村の薬王寺の門前に、一頭のたくましい牡牛が現われた。

 

  飼い主がわからないまま、和尚が物置きで飼うことにしたのだが、その夜、和尚の夢枕に牛が現われ「自分はかつて世話になった者で、その恩返しに働きたい」という。 やがて3年。村人にも重宝がられたこの牛は、すっかりやせ細り、そのうち、どこへともなく姿を消してしまった……。

 

 これもやはり、報恩物語のひとつではあるが、もう土地の人も、そんな話はほとんど知らない。ただ古老が、かつてこの寺は、七堂伽藍の大きな寺だったと教えてくれた。でも、いまはすっかりさびれてしまい、薬師堂の前の大ケヤキだけが、当時の勢威を語るかのように、静かに枝をそよがせているだけだった。

 

(メモ:薬王寺へは県道秋月海南線の仁井辺から東へ300メートル。安原小学校の南1.3キロが仁井辺バス停。国鉄紀勢線黒江駅と、南海貴志川線岡崎駅前から、ともに和歌山バスが出ている。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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紀伊国名所図会 二編六之巻上 薬王寺
国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 平安時代初期にまとめられ、我が国最初の仏教説話集とされる「日本霊異記(にほんりょういき、正式名称は「日本国現報善悪霊異記」)」中巻の32として「寺の息利の酒を借用て償はずして死にて牛と作り役はれ債を償ふ縁(寺が利子をつけて貸している酒を借りたまま返さずに死んだため、牛に生まれ変わって使役されることで償った話)」という物語が掲載されており、上記の話はこれが原典になっていると思われる。

 

原文

 寺の息利(いらしもの)の酒を貸用(かりもちい)て償(つぐな)わずして死にて牛と作(な)り役(つか)われ債(もののかい)を償(つぐな)う縁(ことのもと) 第三十二

 

 聖武天皇の世に、紀伊国名草郡(なぐさのこおり)三上村(みかみむら)の人、薬王寺(やくおうじ)の為に知識を率引(ひきい)、薬の分(わけ)を息貣(いら)え 薬王寺は今は勢多寺(せたでら)と謂うなり 其の薬料の物を岡田村主姑女(おかだの すぐり おばめ)の家に寄せて、酒を作りて息利す。
 時に斑(まだら)なるこうし 筆者注:子牛のこと)有り。
 薬王寺に入りて常に塔の基に伏す。
 寺の人擯(お)い出せば、またなお還来(かえ)りて伏して避(さ)らず。
 怪(あやし)びて他(ひと)に問いて曰わく
誰家が犢ぞ
という。
 一人
我が犢なり
と言う者無し。
 寺家(てら)(とら)えて、縄を著(つ)け繋ぎ餧(か)う。
 年を経て長大(ひととな)り、寺の産業(なりわい)に駆せ使われ、歳五年を経(ふ)
 時に寺の檀越(だんおち 筆者注:檀家のこと)岡田村主石人(いわひと)夢に見らく
其の犢牛石人を追い、角を以(も)ちて牚(つ)き仆(たお)し、足を以ちて踰(ふ)む。
 石人(おび)え叫ぶ。
 是に犢牛問いて言わく
汝 我れを知るや
という。
 答えていわく
(し)らず
という。
 彼(そ)の牛放れ退き、膝を屈げて伏し、涙を流して白(もう)して言(もう)さく
我れは、桜村(さくらむら)に有りし物部麿(もののべの まろ)なり
(あざな)塩舂(しおづき)と号(い)う。是の人 存(い)けりし時に、矢を猪に中(あ)てずして、我れ当(まさ)に射たりと念(おも)い、塩を舂(つ)きて、往(ゆ)きて荷(にな)わんとして、猪無きことを見る。ただし矢のみ地に立てり。里人見て咲(わら)いて、号(なづ)けて塩舂と曰(い)う。故に以(これをも)ちて字とす。
 吾れ先(さきのよ)に是の寺の薬の分(わけ)の酒を二斗貸用(かりもちい)、償(つぐな)わずして死にき。

 所以(このゆえ)に今 牛の身を受けて、酒の債(もののかい)を償う。
 故(このゆえ)に役使(つか)わるらくのみ。
 役(つか)わるべき年八年(やとせ)を限る。
 役われて五年(いつとせ)、いまだ役われずして三年(みとせ)なり。
 寺の人 慈(いつくしみ)無く、我が背を打ちて追いて駆(は)せ使う。
 斯(こ)のはなはだ苦(くるし)み痛むこと、檀越(だんおち)にあらずよりは愍(あわれ)む人無し。
 故(このゆえ)に愁(うれい)の状(かたち)を申すなり
ともうす。
 石人問いて曰わく
何を以(も)ちての故に知る
という。
 おうし)答えて曰わく
桜の大娘(おお おみな)を問いて虚実(そらごと まこと)を知れ
という。大娘は酒を作る家主(いえぎみ)、すなわち石人の妹なり
とみる。
 独(ひとり)(おおき)に怪(あやし)みて妹の家に往(ゆ)き、具(つぶさ)に上(かみ)の事を陳(の)ぶ。
 答えていわく
(まこと)に言(ことば)の如く、酒二斗を貸用(かりもちい)、いまだ償(つぐな)わずして死にき
という。
 茲(ここ)に知寺(ちじ)の僧(ほうし)浄達(じょうだち)並に檀越(だんおち)等、因縁を悟り、哀愍(かなじ)ぶる心を垂れて 為(ため)に経を誦(よ)むことを脩(おこな)う。
 八年(やとせ)を遂(はた)し已(おわ)りて去る所を知らず、また見えず。
 当(まさ)に知るべし、債(もののかい)を負いて償(つぐな)わざれば彼(そ)の報(むくい)無きにあらざることを。
 あに敢(あ)えて忘れんや。
 所以(このゆえ)成実論(じょうじつろん)に云(のたま)わく
もし人 債(もののかい)を負いて償(つぐな)わざれば、牛(うし)(ひつじ)(くじか 筆者注:きばのろ(牙獐)というシカ科の獣)鹿(しか)(うさぎうま 筆者注:ロバ(驢馬)の別称)(うま)の等(ごと)きらの中に堕ちて、其の宿(むかし)の債(もののかい)を償う
とのたまうは、其(そ)れ斯(こ)れを謂(い)うなり。
※筆者注:カッコ内のふりがなは原則として原典による。
※筆者注:読みやすさを考慮して、適宜漢字、ふりがな及びかなづかい等を現代のものにあらためた。

 

現代語訳(抄)
 聖武天皇の頃(701~756)、紀伊国名草郡三上村(現在の海南市且来)薬王寺では、薬を作るために必要な資金を酒作りで調達していた。
 あるとき、その寺にどこからともなく子牛がやってきて立ち去らないので、縄をつけて寺の仕事に使役していた。
 5年が過ぎたころ、岡田(現在の海南市岡田)村主(すぐり 地方の首長の官職名)である石人(いわひと)という檀家の男の夢に牛が現れて、
私は桜村(現在の海南市坂井とされる)に住んでいた物部麿(もののべ の まろ)というものです。かつて薬王寺から酒を二斗(約36リットル)貸りたまま返さずに死んでしまったため、牛に生まれ変わって償っています。8年にわたって働かなければならないのですが、まだ5年なので、あと3年働きます。ただ、寺の人があまりにも無慈悲に私にムチ打ってこき使うので、その苦しみをあなたに知っていただきたいのです。私のことは桜村の大娘という人物(石人の女兄弟)に確かめてもらえばわかります。
と語った。石人が桜村で確かめたところまさにそのとおりであった。
 8年経つと牛はどこかへ去っていった。
 まことに、「成実論(じょうじつろん 4世紀頃にインドで著された仏教の経典)」にあるように、借りたものを返さなければ動物に生まれ変わってこき使われてでも償いをしなければならないものだ。
※現代語訳は筆者。

 

  • 本文ではこの物語は報恩物語(いわゆる「恩返し」)のひとつと位置付けているが、今津勝紀氏は、「日本古代における生存と救済の問題岡山大学文学部「岡山大学文学部紀要 71巻 2019)」において次のように述べており、この説話は寺社が債務を抱えた貧民を牛馬と同様に使役することを正当化したものであると指摘している。

(略)
 日本古代の奴婢は男女の賎民の総称で、男が奴(ヤッコ)、女が婢(メノヤッコ)である。
(略)
 総人口に占める奴婢の割合は四%程度であり、八世紀初頭の日本古代の人口が450万人だとすると、おおよそ20万人弱の奴婢が存在したと推定できる。こうした隷属者である奴婢は天皇をはじめとする貴族、地方の有力家父長層のもとに集積され、寺社も多くの奴婢を所有していた
(略)
 ちなみに古代の仏教説話集である『日本霊異記』(中32)には「寺の息利の酒を貸用て償はずして死にて牛と作り役はれ債を償ふ縁」と題した説話が納められているが、この場合、寺への負債を抱えたまま死んだ人は牛となって、その寺で八年間駈使されたことを伝える。この説話の末尾には「所以に成実論に云『若し人債を負ひて償はざれば、牛・羊・麞・鹿・驢・馬の等きらの中に堕ちて、其の宿債を償ふ』とのたまふは、其れ斯れを謂ふなり」とあり、こうした債務履行の義務について、仏教経典である成実論六業品の記載が引用され、正当化されているが、牛馬と同様、債務により転落し寺にて使役される人聞がいたのである。

岡山大学学術成果リポジトリ

 

 

  • 薬王寺」と当地の地名である「薬勝寺」について、和歌山県酒造史編纂委員(当時)の松本武一郎氏は、「百済から来た酒の神様・神櫛ノ王・村主(日本釀造協會雜誌 1973年 第68巻第5号)」において次のように述べている。

天平時代、和歌山市仁井辺の近くに薬勝寺薬王寺の二寺があった。
薬勝寺の方がどうしたわけか地名として残った。

薬王寺行基大僧正の創建になる聖武天皇勅願寺である。
いにしえは封境も広大で、諸堂厳然として6院あった。
中世は僧兵を蓄え、信長秀吉に反抗したため、天正13年豊太閤南征に薬勝寺と共に焼亡した。
本尊だけは難を免れ小房に安置されていたが、後世本堂は小さいながら再建された。方三間ばかりのその堂宇も腐朽甚だしく、先年天井が落ち村人たちの手で改修を行なった。その時棟札が発見され,それによると再建は浅間山大噴火のあった年,すなわち天明3年(1783年)で約190年前であることが判った。
本尊薬師如来は仏師春日の作で光明皇后 も念じたと伝えられている。

 

やくおうじ 薬王寺和歌山市
 和歌山市薬勝寺にある寺。浄土宗。瑠璃山天平院と号す。本尊は阿弥陀如来
 「風土記」が記す寺伝によれば、当地は光明皇后の湯沐邑で、奈良期の天平年間、聖武天皇の勅願により創建されたとの古刹伝承がある。また同書では、多聞院・菩提院など6子院を持ち、近隣4か村で9町9反余の寺領を有したという。

 当寺名の初見は、平安初期景戒の著した「日本霊異記」(古典大系)中巻32話で、この説話は当寺が人々に薬を分与するため利殖を計った際、借りた酒を償うことなく死んだ物部麿という男が、死後牛に姿を変えて当寺で使役され、借財を返済したというもの。この話には、寺内に塔が備わっていたことや役職の異なる複数の僧侶がいたことがみえ、当地南西2kmほどの海南市岡田に比定される「岡田村」の女性が酒作りを行って利殖に協力していることは、当寺の信仰圏の広がりを示す。
 また当寺名について、「<今謂勢多寺也>」との注記が付される。勢多は、治安3年11月23日付太政官符写薬王寺文書/和歌山市史4)に名草郡三上院内の薬勝寺領4か村中にみえる村名で、当寺が勢多村に所在したために生じた通称と思われる。
 鎌倉後期、永仁7年正月27日付関東下知状紀伊薬王寺文書/鎌遺19934)によると、薬勝寺敷地(当寺敷地)と同寺領の支配権をめぐって本所薬勝寺と三上荘勢多郷半分地頭金持広親の間で訴訟が行われる。この訴訟の論争点は、薬勝寺が「岡田郷内蓮峰」より当寺地へ移建されたとする地頭方の主張と、当寺薬勝寺敷地の一部に後年建立されたとする寺方の主張にあった。訴訟の結果は、本所薬勝寺の主張が認められたが、前記の「日本霊異記」にみえる説話から、当寺が従来から勢多に所在した寺であり、地頭方の主張に信憑性があるこの相論で当寺の主張がみられないことは、鎌倉末期の当寺は自らの権利を主張できない逼塞状況にあったとも考えられる
 その後の寺歴について、「風土記」がわずかに、天正年間の火災で諸堂が烏有に帰した後、小堂を再建して現宗派へ改宗したと記す。境内の薬師堂付近から古瓦が出土し、周辺から軒丸瓦が出土しており、これらは奈良前期のものといい紀州今昔)、当寺の前身である古代寺院の遺物と推定される。
 現在、本堂・庫裏・薬師堂・鐘楼堂などの堂宇があり、毎年正月・7月に薬師如来会が営まれる。

 

  • メモ欄中の仁井辺停留所を通るバス路線はいずれも廃止となっている。公共交通機関利用では和歌山電鉄貴志川線岡崎前駅から徒歩で約2.5キロメートル。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。