生石高原の麓から

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父母状物語 ~和歌山市片岡町~

 「父母に孝行に 法度を守り 謙(ヘりくだ)り 奢(おご)らずして…

 和歌山城に近い岡公園の東側、太田萬造さん宅の前に据えられた、高さ1.5メートル、幅3メートルばかりの大きな石碑に、こう刻られている。世にいう「父母状之碑」。紀州徳川家初代藩主、頼宣を語るエピソードは多いが、この「父母状」は、領民に「人の道」を説いたものとして有名だ。

 

  熊野の山里で律気に生きてきた若者が、大酒呑みで家庭の平和を乱す父親を、恩い余って殺したものの「子が父を殺してなぜ悪い」と、その信念を曲げようとしない。それを聞いた頼宣が、自らの治政の不傭を反省して一文をしたためた……というこの話は、殺伐とした現代社会でいま一度、見直したい事柄でもあろう。

 

(メモ:国道42号線県庁前交差点から三年坂へ入り、児童婦人会館横の交差点を南へ約200メートル。武徳会館の前。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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父母状の碑
  • 万治3年(1660)、熊野の山中で親殺しの罪を犯した者がいた。ところが、その者は反省もせずに「私が殺したのは他人ではなく自分の親だ。我が儘ばかり言って家の者も困り果てたので殺した。間違ったことはしていない。」と抗弁するばかりであった。これを知った紀州藩徳川頼宣は、「自らの罪が解らないまま処刑すべきではない」と言い、藩主お抱えの儒学者である李梅渓(り ばいけい 1617~1682)に命じて、この者を教え諭すように命じた。3年の年月を経て、ようやく自らの罪に気がついたその者は、自らの罪を悔い、刑を受けたという。その後、頼宜が再びこのような事件が起こらないようにと藩内に教訓状として広く宣布したのが「父母状」である。

 

  • 父母状の内容は次のとおり(表記については多少の異同あり)。 

    父母に孝行に
    法度を守り
    へりくだり
    奢らずして
    面々家職を勤
    正直を本とすること
    誰も存たる事なれとも
    弥能相心得候様に
    常々可申聞者也

  • 現代文にすれば「父母に孝行し、法を守り、質素に、家業に勤め、正直に暮らすことは、誰でも知っていることではあるけれども、しっかりと心得るように常々言い聞かせなければならない」との趣旨である。

 

  • 父母状は、藩内に触れ状として配布されたのみならず、木版印刷された紙を家ごとに貼り出させたり、寺子屋での手習いの手本にするなどの方法で藩民への定着が図られた。

 

  • 父母状がつくられた経緯について、明治21年(1888)から明治34年(1901)にかけて編纂された紀州藩の史料集「南紀徳川史(刊行は1930~33年)」のうち、「巻之三 南龍公第三」の項に次のような記述がある。

正月御教諭を民間に下し給ふ 

 

大君 言行録の中に洩れたる事有とて或夜話に善父の語り給いしは
古老の咄し伝えに
或時熊野の山中にて親を殺せる者有りき

吏是を捕えて糾明すれば
おそれ憚り包む気もなく答て

 

我 他人の親を殺せるにもあらば御咎も有べき事也
我殺せるは我親也
常に我儘而巳言い 家内の者の困り果て
某が申事をも用いざるゆえ殺せる也

 

更に我誤りにあらずという

獄を司どる者どもつみ重く親の尊き事を言い聞かすれ共
更に始の如くいいて屈する事なし

奉行頭人も当惑して 此事 へ申上げれば
夏の事にや御扇を遣わせながら熟々聞かせられ
其御扇を御額杖に突給い暫く御答もなかりしが

 

(さて)も扨も 熊野山中辺鄙とはいいながら
我城下を離るる事遠きにあらず
鳥獣すら其孝は知れり
(いわんや)下賤たり共 人に於てをや
禽獣に劣りたる行いこそ 渠(いずくんぞ)か過にあらず
我政道の届かざる不徳のなす業なれ

 

とて御涙をぞこぼさせらる

さるにても斯る愚かなる者を其儘に罪すへきに非す
其孝の尊ときをさとし聞かせんとて
其比南紀の鴻儒(偉い儒学者のこと) 李梅溪
 此名の字詳ならず 此人は長崎の産にて明人の胤なる由
と言えるに仰付られ 日々獄屋に行きて孝経を読て
其事をさとし聞かすれど 更に辨(わきま)うべくもなし
漸にして三歳(3年)を経て 
始て其孝道の重きを知りて言うよう

 

扨々(さてさて)今迄は斯る親の有難き事を知らずして
誠に勿体なき事仕り侍りて
上にも御苦労掛奉る事 言わん方なし
斯くこの道を存するうえは
須臾(しゅゆ わずかの間)も天道の光を受ん事恐敷こそあれ
早々御仕置仰付られ給り候え

 

と泣々訴え申ければ
梅溪始め是に預りし者 歎息して喜び
此由 上へ申上げれば にも悦びおわしまして
斯理に伏し誤れる上は 不びんながら政事也
(さ)あらば 法の如く行えとて 其罪にぞ行はれける

 

扨 山中又斯る者あらんには情なき事成り とて
自ら御筆を執らせ給いて

 父母に孝行に
 法度を守り
 謙(へりくだ)り奢らずして
 面々の家職を勤め
 正直を本とする事
 誰も存したる事なれども
 彌能相心得候様に
 常々下に教え申聞べきもの也
   子 正月  日

と遊されて

 

是を山々浦々迄 壁にして
能々(よくよく)喩し教えよ

 

とぞ仰出されける由
誠に 大君の御政事 有難もかしこからずや
古く聞ける事よと両父君並に自快齊 杯の咄有るままを記す
※筆者注:カッコ内は筆者
※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字及び仮名遣い等を適宜現代のものにあらためた。

 

  • 上記の父母状執筆にかかるエピソードについて郷土史研究家の平岡繁一氏は「紀州藩儒者 李梅渓父子資料 上 (非売品 1985)」において次のように述べており、「父母状」は複数の儒者により起草され、李梅渓が浄書したものであろうこと、「熊野の父親殺し」という事件は創作であったと思われること、などとしている。 

梅渓と父母状
(略)
 梅渓紀州藩儒者として藩政・教育・その他多くの分野に業積を残し、上下の尊敬を得ましたが、その中でも特に梅渓と云えば「父母状」・「父母状」と云えば梅渓と云われるほど「父母状」については顕著であります。
 「父母状」は、頼宣が起草し梅渓が浄書したとされていますが、研究家の資料からみても、実際は、梅渓などの儒者達が下書し、最終的には梅渓が浄書したとするのが正しいとみられます。
 「父母状」の頒布については、頼宣由井正雪の件で約十年に及ぶ江戸屋敷住いを命ぜられており、万治2年(1659)帰藩することとなりましたが、藩内は乱れており、立直しをしなければならないということから、頼宣の命があったものと推察されます。そして、その主旨を徹底するため熊野の男の事件を関連させることでより効果を高めたのでありましょう。
 熊野の男の事件については、浜田康三郎父母状の話」の中にも書かれているように、熊野地方で色々調査された結果でもそのような事件は全くなかったようです。
 推定するところ、熊野の男の事件については、作為的に創作されたものであったと思われます。
 しかし、それによって「父母状」の価値は何等疎外されることなく、その理念は代々の藩主によって受継がれ、識者は勿論のこと一般領民にいたるまで広くその主旨は徹底されていました。

 ※「由井正雪の件」とは、慶安4年(1651)、三代将軍徳川家光の没後にわずか11歳の家綱が四代将軍に就任したという政治的空白を突いて、軍学者由井正雪巷に溢れる浪人の支持を集めて幕府の転覆を図った事件(「慶安事件」「由比(由井)正雪の乱」とも)を指す。この計画は頓挫したが、正雪の遺品から紀州藩主・徳川頼宣の書状(偽造であったとされる)が見つかったため、当時幕政に批判的であった頼宜は幕府転覆を謀ったという嫌疑を受け、その後10年にわたって紀州への帰国は許されず、江戸城内で暮らした。 

 

  • 父母状の実質的な起草者とされる李梅渓は、朝鮮の儒学者李真榮の子として和歌山で生まれ、徳川頼宜やその子光貞らに儒学の講義を行いつつ、徳川家の年譜である「徳川創業記考異」の編纂や、熊野の王子社や古跡の調査なども行っている。また、友ヶ島の通称「五所の額」や、和歌浦付近の観光名所、新宮の「秦徐福之墓」など梅渓の筆による石碑も多く残されている。梅渓の名の由来は、「徳川創業記考異」などの功績により梅原村(現在の和歌山市梅原)に領地を与えられ、別邸を設けたことによるとされる。

 

  • 李梅渓の父李真榮は朝鮮の儒学者で、豊臣秀吉朝鮮出兵文禄の役 1592)の際に捕虜となり、大阪に連行された。後に和歌山へ移され、海善寺和歌山市道場町)などで過ごす。その後一旦は大阪に戻るが、大阪の陣の頃に再び和歌山へ戻り、占いや儒学の講義などを行った。元和元年(1619)、徳川頼宣紀州藩の藩主になった際に侍講として取り立てられて、頼宜に儒学の御前講義を行うようになった。

 

  • 父母状之碑」の所在地は、現在「紀州料理 あおい茶寮和歌山市谷町)」の門前となっている。

 

  • 岡公園和歌山市岡山丁)には、「李真榮 梅渓顕彰碑」がある。これは、平成10年(1998)に李真栄・梅渓顕彰会が建立したもの。
  • 李真榮が一時身を寄せていた海善寺には李真榮・梅渓の墓所があるほか、父母状を刻んだ「李梅渓公顕彰記念之碑」が建立されている。

 

  • 海善寺が運営している雄湊幼稚園では園児に父母状の教えを伝えており、卒園式で「お父さんお母さんを大切にします。決められたことは守ります。」等と朗読している。
    [特集] 受け継がれる紀州のココロ

 

  • メモ欄中「児童婦人会館(後に「児童女性会館」に改称)」は平成27年(2015)度に解体撤去された。跡地には、長屋門紀州藩大村家が有田屋町に建築したもの。明治期に和歌山市堀止東に移築され、近年取り壊しの危機にさらされていた。)が移築されている。

 

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。