生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

鷹ノ巣 ~和歌山市雑賀崎~

 くねくねと曲がる石段を下りると、もうそこまで波が打ち寄せていた。青っぽい岩が、春の陽光に映え、透明な水底の岩は、一段と青味をおびてみえる。
 おっかな足どりで、鉄板敷きの狭い橋を渡りきったところに、ぽっかりと、岩が大きな口をあけていた。

 

 「高さ10メートル、奥行き30メートルあります。教如上人真宗大谷派始祖、1558~1614年)が、信長の追手を逃れてかくれたということで、上人窟ともいわれています
 土地の人の説明を聞くながら、かつて鷹が巣くったという天井を仰いだ。それはまさに、みごとな自然の造形美だった。

 

(メモ:奥和歌をさらに北へ進むと、小さな観光灯台があり、その下約60メートルのあたりに洞穴がある。一帯は古生代の緑泥片岩から成っており、岩の表面は、海触による大小無数の穴でいろどられている。「番所の鼻」はすぐ北側。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

 

 

  • 顕如紀州へ移ると決めたとき、父と共に信長と戦っていた弱冠23歳の教如は、「本願寺から退去しても信長が我々を助けるとは限らない」と父に反発、本願寺内部は顕如率いる「和睦開城派」と、教如率いる「籠城抗戦派」の二派に分裂した。結局この二派は対立したまま、顕如らが紀州へ移った後も教如石山本願寺に籠城し各地の信者に信長への抵抗を呼びかけ続けたが、長くは続かず約4か月後には退去せざるを得なくなった。これに際して教如紀州御坊に居た父・顕如を頼ろうとしたが、既に教如を義絶(勘当)していた顕如は、教如を受け入れることを拒否した。
  • 伝によれば、この際に教如を救ったのが雑賀衆で、「雑賀崎」を構えていた通称「鷹の巣」と呼ばれる断崖絶壁の地にある洞窟に教如上人を匿ったとされる。この洞窟が現在に伝わる「上人窟」である。

 

  • こうした一連の経緯について、和歌山市が編纂した「和歌山市」では次のように記述しており、教如が流浪の生活を送ることとなったのは雑賀衆内部の対立が大きな要因だったのではないかと考察している。

雑賀崎の上人窟
 天正8年(1580)8月2日、教如近衛前久石山本願寺を引渡し、雑賀と淡路島の舟に迎えられ、大坂を退去した。諸国の端城の者を始めとして、籠城衆は右往左往それぞれ縁をたよって、くもの子を散らすように分かれて退城したという。教如は雑賀へ退いた
 本願寺「近衛殿請けとりなされて後、焼くるように用意しけるか」、すべての伽藍が二日一夜の間に灰塵に帰した教如は「数代聖人の御座所」を「法敵」に汚されないため、徹底した手段を講じたのであった。石山本願寺は、ここに織田信長の膝下に屈した。
 教如は、各地の支援門徒中へ籠城中の懇志を謝し、雑賀へ無事に立ち退いたことを報じた。最後まで教加に従った坊官下間頼龍は、「にわかに雑賀に至り御座移られ候。然れども御両所顕如教如様の御間の儀、堅固通ぜず候こと候。此の条定めて御隠れあるまじく候」と、雑賀における顕如教如父子が義絶状態にあったことを、飛騨門徒に報じている
(略)
 雑賀での教如は、顕如との間が「義絶」状態にあり、天正10年(1582)6月、信長が本能寺の変に倒れ、「叡慮」によって「義絶」が解かれるまで、所々に居を移したため判然としない面が多い。その点について、「鷲森旧事記」には、次のように述べている。

 

 鷺森に着いた教如にとって「雑賀中は一円に教如のなされ方、不覚人と存ずるゆえ、誰か一人として御馳走(世話)申すべき儀なし。何方に身を隠し置きたまうへき便もなし」という有様であった。そこで、「和歌浦雑賀崎という所の海岸に、鷹の巣と申して」波のうがった洞窟があったので、和歌浦・雑賀の門徒が、そこに教如を忍ばせ、朝夕の食事を運んで10日ばかり守護した。ところが、信長からの討手も来なかったので、和歌浦の在家「垣生の小屋」に移り、鷺森の顕如に詫言(わびごと)を述べたが、許されなかった。しかたなく、和歌浦に別寺を建てようとして諸国へ廻文を出したが、再び、信長の討手が来るという風聞に日高郡阿尾浦へ行き、「阿尾の道場」に16日間滞在し、和歌浦に戻り、すぐ大和路から美濃へ、さらに飛騨との国境に近い山中へ落ち延びたという。だが、三たび雑賀に戻った折、天正10年(1582)4月下旬、信長は神戸三七を雑賀に向かわせた。雑賀では「真宗の滅亡この時なり」と覚悟をしていたところ、6月2日夜の本能寺の変で信長が倒れ、神戸三七の軍が引き上げて、危うい所で安全なるを得た。

 

「鷺森旧事記」は以上のように記しているが、雑賀には教如を支援する勢力が多くあり、大坂退去にあたって数百艘の舟で迎えたのも雑賀衆であった。ただ、信長を憚って父子別居し、また、教如が流浪の生活を送ったことは事実であろう(略)「鷺森旧事記」の天正10年雑賀攻めについては、後に述べるように明らかに誤伝である。

 

 現在も雑賀崎(さいかざき 和歌山市雑賀崎の突端に「鷹ノ巣」と呼ばれる高さ約80メートルの絶壁があり、その崖にある20畳敷きほどの洞窟を「上人窟」と語り伝えている。また、阿尾(あお 現日高郡日高町の海岸にも「逗留窟(とうりあな)教如洞ともいう)と呼ばれる洞窟があり、教如が忍んだという伝承がある。確かに、最後まで本願寺に踏みとどまって反抗した教如に対して、信長の意趣もあっただろうが、叡慮による和解でもあり誓紙も取り交わしていることを考えれば、果たして、それほど危険が迫っていたとも考えられない。それよりも、雑賀衆内部の対立が、その背後にあったのではないかとも考えられる。

 

 

  • 上人窟(しょうにんくつ)」は、通称「紀州の青石」と呼ばれる緑泥片岩が高さ約50mにわたって露出している断崖絶壁にできた洞窟で、かつてここに鷹が巣を作っていたことが「鷹の巣」という地名の由来となったとも伝えられる。灯台下の駐車場から遊歩道があり、有料で見学することができたが、台風により遊歩道が崩落したため、現在は徒歩で上人窟に入ることはできない。イベント等で漁船を使って海から上陸した例はあるが、定期便等はない。

 

  • 雑賀衆が「雑賀崎」を構えていたとされる場所には、現在「雑賀崎灯台」がある。これは昭和35年に建築されたもので、和歌山市が整備した観光用の展望施設の上部に海上保安庁灯台を新設したもの。
  • 灯台の周辺はかつて「鷹の巣遊園」として観光地化されており、上人窟への遊歩道に加えて、駐車場、土産物店などがあった。令和2年(2020)秋に、旧施設を改装してテイクアウトカフェが開設される予定である。

 

  • 雑賀崎には、彼岸の中日に太陽が沈む際にキラキラと花が降るように見えるという「ハナフリ」の伝承がある。1998年から2017年までは、ここで毎年「夕日を見る会」が開催され、出店や音楽イベントなどで賑わっていた。下記リンク先の記事にあるように、2018年から和歌山市が公園整備を行うこととなったのを契機として「夕日を見る会」は終了した。

    www.nwn.jp(ニュース和歌山/2017年9月23日更新)

 

  • メモ欄中、「番所(ばんどこ)の鼻」は「鷹の巣」の北側にある岬の名称で、平坦で細長く和歌浦湾に突き出していることから、江戸時代に紀州藩海上防衛のための見張番所が置かれていたことが地名の由来となっている。現在、ここは散策、バーベキュー、海釣りなどが楽しめる観光施設「番所庭園」となっている。
    番所庭園
     

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください