生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

和佐大八郎 ~和歌山市称宣~

 弓のチャンピオン和佐大八郎は、昔の和佐村の出身。24歳のとき、京都・三十三間堂の「通し矢」で、一昼夜に8133本を記録、一躍日本一の弓の名手になったという。貞享3年(1686)4月のことだった。

 
 だが、晩年は恵まれず、田辺に幽開されたまま病死したとか。理由は弟、半六の女性問題ともいうが、大八郎の記録はライバルだった尾張審士の記録を破ってのもの。そのあたりに、この「不遇の晩年」を解明する手がかりがあるのかも……。

 

 その大八郎の墓が、称宣の山すその共同墓地の一角にある。高さ40センチばかりの小さな碑の側面にある刻字は「大八良」。そういえば、彼の名は「大八」だという説も。

 

(メモ:布施屋(ほしや)の国道24号線から南へ県道船戸海南線へ入って約3キロ、国鉄和歌山線布施屋駅からも同じくらい。墓の北500メートルほどのところに、母親が大八郎の成功を祈願したという「高積神社」がある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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和佐大八郎の墓
  • 和佐大八郎範遠(わさ だいはちろう のりとお)は、寛文3年(1663)紀伊国和佐村禰宜(現在の和歌山市和佐)の生まれ。この人物について和歌山県が管理するWebサイト「わかやま歴史物語100」では次のように紹介している。

日本一の弓術家・和佐大八郎の偉業をたどる

 体力と技が必要とされる弓道で偉業を成し遂げた男が、和佐大八郎(わさだいはちろう)です。寛文3年(1663)和歌山に生まれた大八郎は、14歳にして身長が2mにも達したといわれる大男で、紀州藩の弓術師範指導のもと、弓の実力を伸ばしました。当時、京都の三十三間堂では全長約121mの軒下空間で弓を射通す「通し矢」が盛んに行われていて、武士がその弓の腕を競い合っていました。なかでも一昼夜(24時間)矢数無制限で射続ける「大矢数」が人気で、尾張藩星野勘左衛門が寛文9年(1669)に総矢数1万542本のうち8000本成功という大記録を打ち立てていました。これに挑戦、記録を打ち破ったのが貞享3年(1686)、当時24歳の大八郎。その総矢数1万3053本、うち8133本を成功させたというから驚きです。途中、大八郎が疲労で弓が引けなくなった際、見物人の一人が小刀で左手を切ってうっ血を取ってくれたため、弓を再開することができたといいます。その見物人こそが、記録保持者の星野勘左衛門だったという逸話も残されています。この大記録により、大八郎は「天下惣一」の名誉を得ることになりました。

 

  • 通し矢」は、京都市東山区にある蓮華王院本堂(通称 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう))において、全長約121メートル、高さ4.5~5.3メートル、幅2.36メートルという長大な軒下空間で矢を射通す競技を指す。距離(全堂、半堂、五十間など)、時間(一昼夜、日中)、矢数(無制限、千射、百射)を組み合わせた様々なルールがあるものの、一般的には一昼夜(24時間)射続けて成功した数を競う「大矢数(おおやかず)」を指して「通し矢」と呼ぶことが多い。

 

  • 通し矢の記録を記した「年代矢数帳(慶安4年(1651)序刊)」に明確な記録が残るのは慶長11年(1606)の浅岡平兵衛が最初である。

    ja.wikipedia.org

  • 寛永12年(1635)に尾張藩杉山三右衛門が6,082射で3,475本成功という記録を挙げてからは共に紀州御三家である尾張藩紀州藩との威信をかけた闘いが始まり、交互に記録更新が続けられたが、寛文9年(1669)に尾張藩星野勘左衛門が打ち立てた10,542射で8,000本成功という記録(しかも星野は6時間を残して余裕をもって競技を打ち切ったとされる)は空前にして絶後であると言われ、その後17年間にわたり破られることはなかった。

 

  • 貞享3年(1686年)、当時24歳であった和佐大八郎は一昼夜にわたり総矢数13,053本を放ち、うち8,133本を成功させた。これを24時間で割り戻すと1時間あたり544本、1分あたり約9本のペースで121m先の目標に向けて矢を放ち続け、そのうち62%を成功させたことになる。

 

  • このとき、大八郎は疲労により一旦は弓が引けなくなったものの、見物人の中から一人の武士が近づいて小柄(こづか 小刀)で左手を切ってうっ血を取り去ってくれたことにより再び射ることができるようになった。その武士こそが前記録保持者の星野勘左衛門であった、とのエピソードが語り継がれている。
  • このエピソードについて、全日本弓道連盟会長(当時)宇野要三郎監修により昭和44年(1969)に発行された「現代弓道講座 第3巻 射法編下雄山閣出版)には次のように記されている。

 当時二十二歳の若輩であった大八郎は、前日の暮六つから通し矢を試みはじめたが、四月二十七日は朝から調子がわるく、疲労の色が濃厚になり、矢振りが次第に落ちはじめて、とうてい八千筋の記録を破ることがむつかしかろうとみえたちょうどそのとき、見物にきていた星野勘左衛門は、若い大八郎を手招き、左の手を開かせて小刀で突きやぶってウッ血をとめさせたところ、たちまち悪かった調子が見違えるほどによくなり、ついに勘左衛門が残した八千本の記録を打破ることができたと伝えられている。
 このとき勘左衛門の心意気は実に見上げたものだが、勘左衛門の手招きに応じて左の手を開き、小刀で突きやぶってもらった大八郎の心意気も実にすばらしく立派なもので、それによって大八郎勘左衛門の大記録を打破る新記録を樹立したことは、全くもってこの二人のフェアプレーによるものというほかないのである。
 勘左衛門の背後には尾州があり、大八郎の背後には紀州藩があって、この両藩はあげてこの両人の一挙手一投足を見守っていたことであろう。それどころか、京都所司代をはじめ、全国の諸藩はあげて天下惣一の行方を見守っていたのである。そのなかで、勘左衛門大八郎の二人が演じたこのフェアプレーこそ、今日のわれわれとして、大いに学ぶところがなければならない。いうまでもなく、それは弓道の上だけではなく、人間、社会のすべての面においてである。

現代弓道講座 第3巻 (射法編 下) - 国立国会図書館デジタルコレクション
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  • 大八郎の記録以後も大矢数は続けられたが記録更新はならず、18世紀中期以降はほとんど行われなくなった。現在、三十三間堂は国宝となっており当時のように記録更新をめざした競技会を行うことは不可能であるため、大八郎の持つ8,133本という記録は今後も破られることはないと思われる。
  • これにより尾張藩との長年の競争に決着をつけることとなった紀州藩の喜びは熱狂的であったと伝えられ、第2代藩主徳川光貞公も紀の川八軒屋船着き場まで直々に出迎えをし、知行300石を与えたと言われる。

 

  • 晩年は不遇で、宝永6年(1709)に田辺城に幽閉されて正徳3年(1713年)、病により田辺城内の長ヶ蔵で51年の生涯を終えた。幽閉された理由については不明な点が多いが、上述のWebサイト「わかやま歴史物語100」では、次のように説明されている。

和佐大八郎が田辺市に流された理由とは?
 既婚の婦人に恋文を送るということが大きな罪に問われる時代、突如大八郎の妻の元に恋文が届きました。大八郎はなぜか差出人を調査しませんでしたが、後日、差出人が大八郎の弟と判明。大八郎が弟をかばう形で家来に罪を被せようとしたことで藩主の逆鱗に触れ、和歌山市から田辺市に流されたといわれています。

 

  • 和佐大八郎の墓は、田辺市浄恩寺田辺市古尾)にもある。また、同寺に伝えられていた大八郎愛用の弓2張が田辺市弓道に寄贈され、道場内に常設展示されている。(「わかやま歴史物語100(上述)」参照)

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。