生石高原の麓から

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’96フォーミュラ・ニッポン第5戦(1996.7.7)

 「モータースポーツ回顧録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していたモータースポーツ関連の記事を再掲していきます。

 今回の記事は1996年7月に鈴鹿サーキットで開催された「フォーミュラ・ニッポン 第5戦」の模様です。

 当時の日本におけるフォーミュラカーレースの最高峰「フォーミュラ・ニッポン」については以前掲載した第1戦に関する記事の中で紹介したところですが、このレースは年間10戦が開催されており、その会場も鈴鹿サーキット三重県CP MINEサーキット山口県 2006年に閉鎖)富士スピードウェイ静岡県十勝インターナショナルスピードウェイ(北海道 現在の名称は「十勝スピードウェイ」)スポーツランドSUGO宮城県と全国各地を転戦するものでした。
’96 フォーミュラ・ニッポン 第1戦(1996.4.28) - 生石高原の麓から

 

 今回紹介するレースはこのシーズンの第5戦で、上記で紹介した第1戦の後、 CP MINE富士スピードウェイ十勝と転戦して再び開幕の地である鈴鹿サーキットに戻ってきたところ、という位置づけになります。
 我が国を代表するサーキットといえば鈴鹿サーキット富士スピードウェイの2か所であるというのは誰もが認めるところですが、レースの種類で言えば「フォーミュラカーレースが盛んな鈴鹿」「ハコのレースが盛んな富士」という印象が定着しており、こういった点でも鈴鹿サーキットに戻ってきたフォーミュラ・ニッポンで各チーム、各ドライバーがどのような戦いをみせるかに大きな注目が集まっていました。

 それでは、当日のレースの模様を紹介します。

 

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’96 フォーミュラ・ニッポン 第5戦

 

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 7月7日、鈴鹿サーキットにおいて「1996年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン第5戦」が開催されました。
 前回までの優勝者は、それぞれ第1戦 星野一義、第2戦 ラルフ・シューマッハ、第3戦 ノルベルト・フォンタナ、第4戦 ラルフ・シューマッハ、という結果で、昨年のドイツF3チャンピオンのフォンタナ、同第2位のシューマッハという2人の外国人ドライバーの強さが目立ちました。そして迎えた第5戦、そろそろ日本人若手の奮起が期待されるところです。

 今回のレースは、スタート直前までかなり激しい雨が断続的に降り、各チームともタイヤ選択とサスペンションのセッティングに頭を悩ませることとなりました。予選で1・3位を占めたチーム中嶋の2台(高木虎之介黒澤琢弥)はスタート直前にレインタイヤからドライ用のスリックタイヤに交換、サスペンションも完全なドライセッティングに賭けました。これに対して予選で2・8位となったチーム・ル・マンの2台(服部尚貴ラルフ・シューマッハ)はスリックタイヤに交換したものの、雨が降り始めることを想定して車高を高めにしたサスペンションのセッティングに賭け、結果としてこれがレースの行方を左右する大きな戦略の分かれ目となりました。

 午後2時のレーススタート。高木は一瞬出遅れますが、1コーナーへの進入でイン側から星野一義を抜き、2コーナーのアウト側から服部尚貴を抜いてすぐにトップに立ちます。そして、そこからの1周が高木虎之介の本領発揮! なんと2位の服部尚貴を3秒以上引き離すブッチぎりの速さを見せ、残る34周を悠々と走りきって今シーズンの初優勝を果たしました。

 高木を追うことを諦めた服部は2位の座を死守しようと後続の黒澤シューマッハをブロックしますが、サスペンションのセッティングの差からかどうしてもリードを保つことができません。結局、残り10周を切った時点で、服部が周回遅れのマシンを抜こうとして一瞬躊躇した隙を見逃さず、1コーナーで思い切りよくイン側に切り込んだ黒澤服部の追撃を振り切って2位に入賞し、中嶋悟監督に初めてのワン・ツー・フィニッシュをプレゼントしました。

決勝結果
 順位   氏名 チーム マシン/エンジン
チューナー/タイヤ
 1位  高木 虎之介   PIAA NAKAJIMA   レイナード 96D
 無限MF308/無限/BS  
 2位   黒澤 琢弥   PIAA NAKAJIMA   レイナード 96D
 無限MF308/無限/BS  
 3位   服部 尚貴   X JAPAN Le Mans   レイナード 96D
 無限MF308/無限/BS  



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 スタート直後の第1コーナー。レースの中で一番混戦になる場面で、時によっては多重クラッシュが発生することもあるが、今回のレースは路面が滑りやすく各選手とも自重したのか大きな混乱もなく全車がスムーズに通過した。

 

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 「全日本選手権高木虎之介クラス 参加車両1台、フォーミュラ・ニッポンクラス その他大勢」と言う人もいたほどの圧倒的な速さを見せた高木虎之介。これまでの4戦のうち3戦でリタイヤを喫するなど満足のいく結果を残せていなかったが、今回のレースでようやくリズムを取り戻したように見える。「とにかく鈴鹿で勝てたことが嬉しい」と、普段無口なトラにしては意外と素直に鈴鹿初優勝(昨年は菅生、十勝、富士でそれぞれ優勝)の喜びを語っていた。

 

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 1995年のF1チャンピオン、ミハエル・シューマッハ実弟ラルフ。21歳という若さにも関わらず、95年ドイツF3チャンピオン、同マカオF3優勝、そして今年は全日本GT選手権フォーミュラ・ニッポンでそれぞれ優勝と実績は十分。フォーミュラ・ニッポン・チャンピオンのタイトルを手にF1へのパスポートを手に入れることができるか。
 また、服部ラルフを擁するチーム・ルマンを支えるスポンサーが、海外でも活躍している人気ロックグループの X JAPAN であることにも注目。

 

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 服部(赤のマシン)が周回遅れを抜こうとして一瞬躊躇した隙に、スリップストリームからインサイドへ切り込んで前へ出ようとする黒澤(白のマシン)。車体の底面に張った磨耗防止のためのチタンの擦り板が路面との接触によって大きな火花を上げている。
 同じく一瞬の隙をついたラルフ(赤のマシン)黒澤とは逆にアウト側から服部を攻めるが、服部はこれをうまくしのいで3位のポジションは守りきった。スタートで8位から4位へジャンプアップしたラルフだったが、この後全く同じセッティングの服部を抜きあぐねて結局4位に甘んじることになった。しかし、それでも着実にポイントを獲得し、シリーズチャンピオン獲得に向けて足場固めをするあたりが、ドイツ流堅実性と言うべきか。

 

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 終わってみればチーム中嶋のワン・ツー・フィニッシュ。淡々と走りきった高木が黙々とウィニングラップを行うのに対して、黒澤は各コーナーで観客に手を振りながら大きく喜びをアピールした。「またワン・ツーをねらいますよ。ただし、今度は僕の方が一番でね。」と黒澤はテレビのインタビューに答えていた。

 

 

平成のシンデレラボーイ 山西康司 登場

 

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 鈴鹿サーキットではレース入門を目指す若手を対象に「鈴鹿フォーミュラレーシングスクール SRS-F」を開校している。ここでは中嶋悟高木虎之介を講師とし、成績優秀者には全日本F3選手権へのスポット参戦が約束されるなど次代のF1ドライバーを生み出すための英才教育が行われている。
 山西康司は、このSRS-Fの第一期生一番手として今年のシーズン当初から4戦のみの期限付きで全日本F3選手権へのスポット参戦が認められた。そして、その4戦の結果はというと、第1戦はトップ争いを演じながらも最終ラップでスピン、リタイヤ、第2戦は5位、そして第3戦の美祢ではなんと初優勝、続く第4戦の富士でも優勝、現在シリーズポイント3位とめざましい活躍を見せた。特に、美祢での優勝はわずか18歳7か月という若さで達成したものであり、日本の免許制度が大幅に変わらない限り恐らく破られることはないであろうと言われる大記録である。
 本来であれば山西のF3挑戦はこれで一旦終了することになっていたが、これだけの才能をこのまま埋もれさせるのはもったいないと、SRS講師の中嶋悟氏が自分のチームに迎え、ポッカ・コーポレーションというスポンサーの理解と協力があって、ついに山西選手の全日本F3選手権全戦出場が決定された。
 さて、その山西、今回の鈴鹿では予選第1回で2位の選手に1.5秒以上の大差を付け、第2回の予選出場をキャンセルするという余裕を見せながら2位の西宮圭一に0.6秒もの差を付けた。
 スタート。山西は大失敗のスタートでいきなり12位前後まで順位を落とした。しかし、ここからが山西の見せ所で、あっという間に8位ぐらいまで順位を挽回。そのあとも、他の選手より1周2秒近く速いラップタイムを記録しながら1台、また1台と前走車をパスしていく。結局、ラスト2周で2位にまで順位を挽回、あと1周あればおそらく優勝した脇坂寿一をも余裕で抜き去っていたであろうと思われるめざましい走りで堂々の2位をゲットした。

 もしこのまま山西が才能を輝かせ続けるとしたら、彼こそが日本人初のF1世界チャンピオンを手に入れる人物となるのではないか、そんな期待さえ抱かせるほどの驚異の新人が登場しました。どうか皆さんも山西選手に声援を送って下さい。どうぞよろしくお願いします。

 

今回のおまけ
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今回はピットウォークに参加しなかったのでピットの様子に代えて鈴鹿サーキットの絶叫マシンをご紹介します

 「ブラックアウト(左)」は、いわゆる「ぶら下がり型(インバーテッド)」ジェットコースターで、大回転やきりもみなど、相当に「エグ」い動きが人気の的です。

 「スペースショット(右)」は、鈴鹿サーキットに今年から新登場することになった最新のアトラクションで、座席に座ったままでロケット打ち上げのように一気に60m上空まで跳び上がり、そのまま落下、そして再びバウンドするように上がったり降りたりを何回かくり返すというものです。

 こういう絶叫マシンに並ぶのは女性が多いですね・・・

 

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 本文中で「平成のシンデレラボーイ」として大々的に取り上げている山西康司選手。  この当時は鈴鹿サーキットが運営するレーシングスクール「鈴鹿サーキットレーシングスクール フォーミュラ(SRS-F)」の第一期生としておおいに注目を集めていました。結果的に、1996年には全日本F3選手権で年間3勝・シリーズ2位というルーキーとしては破格の実績を残し、翌年からはフォーミュラ・ニッポン(FN)にステップアップすることとなりました。
 しかしながら、その後FNには6シーズン参戦したものの最高位が4位と思わしい結果を出せず、残念ながら期待されていたF1へのステップアップは叶いませんでした。現在は引き続きレーシングドライバーとしてスーパー耐久シリーズのレースに出場されているほか、SRS-Fやレーシングカートスクールの講師などを務められて後進の育成にあたっているそうです。
||| レーシングドライバー 山西康司 Official Website - ル・マン スーパーGT |||

 

 山西康司選手を育成したSRS-F(2022年から名称を「ホンダレーシングスクール鈴鹿(HRS Suzuka)」に変更)は、ホンダの子会社であるモビリティランド鈴鹿サーキットの経営母体)が運営するレーシングスクールで、フォーミュラカードライバーを育成するSRS-Formula、レーシングカートレーサーを育成するSRS-Kart、オートバイのレーシングライダーを育成するSRS-Motoの3クラスがあります。
鈴鹿サーキットレーシングスクール

 現在の規定では、選考会を通過して四輪トップレベルのクラスである「SRS-Formula アドバンス」の受講が認められれば、鈴鹿サーキットの国際レーシングコースで現役トップレーサーの指導を受けながら10日間にわたって専用フォーミュラマシンによる走行練習ができるほか、体力トレーニングやマシンのメンテナンスなど、レースに必要となる基礎的な力を着実に身に着けられるようなカリキュラムが用意されています。もちろん受講料は1期270万円(税別)と決して安くはありませんが、才能が認められればスカラシップ選考会を経てFIA-F4選手権へのステップアップが約束されているため、本気でレーシングドライバーを目指そうとする若者にとっては時間と費用を節約できる極めて重要なスクールであると考えられています。

 上記の山西康司選手は残念ながらF1へのステップアップは叶いませんでしたが、その後、SRS-Fからは佐藤琢磨(2002-08 F1参戦、2017、2020 インディ500優勝)角田裕毅(2021 アルファタウリ)という二人のF1ドライバーを生み出したほか、松田次生(2007、2008 フォーミュラ・ニッポン シリーズチャンピオン)山本尚貴(2013、2018、2020 スーパーフォーミュラ シリーズチャンピオン)などトップカテゴリーで成功を収める多数のドライバーが続々と誕生しています。
 こうした実績を踏まえて、2022年1月に行われたホンダモータースポーツ体制発表会では、「モータースポーツで世界に通用する選手を育成する』ことを目的として運営しているレーシングスクールと、若手育成プログラムの更なる強化を図ります」として、スクール卒業生のステップアップ先を従来の国内F4レースに加えてスーパーフォーミュラ・ライト欧州のフォーミュラカーレースにまで拡大することが発表されました。また、F1で協力関係にあるレッドブルとの関係も強化し、欧州のFIA-F2F3フランスF4に日本人ドライバーの育成派遣を共同で行うことも併せて発表されています。
2022年Hondaモータースポーツ活動計画


 このようにSRS-Fが日本人ドライバーの育成におおいに貢献し、今後さらにその規模を拡大しようとしているということを考えると、やはり第一期生である山西康司選手がすぐに実戦で華々しい活躍をみせたことにより「スクールによる選手育成」という方針が正しいものであったと証明できた、ということの意味は非常に大きかったのではないかと思います。上述したように山西選手は現在もSRS-Fの講師を務められているようですので、今後はぜひとも角田選手に次ぐF1ドライバーを続々と育てていただきたいものです。