生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

楠見遺跡(和歌山市大谷 楠見小学校)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 今回は、和歌山市大谷にある楠見(くすみ)小学校の校内で発掘された「楠見遺跡(くすみ いせき)」を紹介します。ここからは「楠見型土器」と呼ばれる特異な形状の土器(初期須恵器)が発見されたことで知られています。

 

 

 この遺跡については、小学校北側の県道粉河加太線沿い、楠見東簡易郵便局の駐車場に次のような看板が設置されています。

楠見遺跡
        平成28年(2016年)3月和歌山市教育委員会
 楠見遺跡は、和歌山市大谷で楠見小学校の周辺に広がる遺跡です。昭和44年(1969)、関西大学による楠見小学校内の発掘調査で、古墳時代の珍しい形の器が数多く発見され、有名になりました。
 古墳時代は、3世紀中頃から7世紀にかけて、日本各地で有力者の墓として古墳が築かれ、国としてのまとまりが形作られた時代でした。特に古墳時代の中期(5世紀頃)には、朝鮮半島などから渡来した人々により、乗馬の風習や、窯で硬い器を焼く技術鉄を生産する技術などの新しい技術が伝えられ、社会が大きく発展しました。
 楠見遺跡で数多く発見されたのは「須恵器(すえき)」とよばれる、窯で焼かれた硬い器で、特に、須恵器を作る技術が伝わったばかりの初期のものです。このような初期の須恵器は、作られた数が少なく、限られた場所でしか見つかっていません。
 古墳時代には、紀ノ川の下流は、瀬戸内海から紀伊水道を通り、紀ノ川をさかのぼって奈良盆地へ至る流通の拠点として、海外から渡来した新しい文化を取り入れた先進的な地域であったようです。紀ノ川の北岸には、数多くの初期の須恵器が発見された楠見遺跡のほか、馬冑(うまかぶと)馬甲(うまよろい)が発見された大谷古墳や、金製の勾玉(まがたま)が発見された車駕之古址(しゃかのこし)古墳などに、渡来文化の影響をみることができます。

 

 上記引用文中にある「須恵器(すえき)」というのは、いわゆる「土器」と、いわゆる「陶器(とうき)の中間的な性格をもった焼き物の種類です。
 縄文土器弥生式土器土師器(はじき)などの名称を有するいわゆる「土器」は、端的に言えば焚き火の中に粘土を捏ねて作った器を直接投入して焼き上げるという「野焼き」の手法で造られたもので、直接火にかけて煮炊きに用いることができるというメリットがあるものの、大きく、重く、水を通しやすいため液状のものを長期間保存するには向かないというデメリットがありました。
 これに対して、いわゆる「陶器(とうき)と呼ばれるものは、粘土を捏ねたものに釉薬(ゆうやく)をかけて高温で焼き上げたもので、この高温を得るために「野焼き」ではなく「(かま)」を用いる点に特徴があります。釉薬が水の浸透を妨げるため液体の保存に適しており、一般的な土器と比較すると薄く、軽く造れる点もメリットです(さらに高温で焼成される「磁器」では、土の成分がガラス化することによってほとんど透水性がなく、より強度が高い焼き物となります)
「陶器」と「磁器」と「土器」と「せっ器(炻器)」の違いって? | ことくらべ


 「須恵器」は、「陶器(とうき)」と同様に窯を用いて高温で焼き上げた土器のことを指します。土器としては高温で焼き上げるため、薄く、軽く造ることとが可能となり、透水性も低いことから甕(かめ)や壺として重宝されたほか、祭事の際に供物を捧げる器としても用いられたようです。また、多くの須恵器轆轤(ろくろ)を用いて整形されており、大量生産が可能であったという点も大きな特徴となっています。しかしながら、この時点ではまだ釉薬は使われておらず焼成温度も1,100度前後と陶器より低い(陶器は1,200度程度、磁器は1,300度以上で焼成する)ことから、「須恵器」は「陶器(とうき)」の範疇には含まれないというのが一般的な考え方となっているようです(「陶質土器」と呼ぶこともあるようですが、これについては下段の引用部分を御覧ください)

 

 ところが、話がややこしいのは、実は「須恵器(すえき)」というのは昭和時代以降に用いられるようになった名称で、かつてはこの焼き物を「陶器」と書いて「すえの うつわもの」と呼んでいたことがあるようなのです。これについて、国立国会図書館が運営する「レファレンス共同データベース」の「陶質土器について知りたい」という項に次のような解説が掲載されています。

陶質土器について知りたい
(略)
『大和の古墳 2 新近畿日本叢書』 奈良県橿原考古学研究所/監修 近畿日本鉄道 2006.1   「陶質土器」竹谷俊夫著の「1.はじめに-陶質土器とは-」(p.94)で
焼物は素地や焼成方法などによって、土器陶器炻器(筆者注:せっき 土器と陶器の中間的性格を持った焼き物で、釉薬をかけずに高温で焼成したもの)磁器の四つに分類できるが、「陶質土器」という語は甚だ曖昧である。その字義は陶器質の焼物と解され、陶器と炻器の両方を含むと考えてよいであろう。具体的には、須恵器をはじめ、信楽常滑備前などの焼物である。 (中略) 昭和に入って、後藤守一氏は古史に見える陶器が「スエノウツワモノ」と訓まれていることから、「ウツワモノ」を「器」と略し、「須恵器」と命名することを提唱した。過渡期には陶質土器と呼ぶ研究者もいたが、後藤氏の命名以後、須恵器の名称は次第に定着した。須恵器は言わば固有名詞であり、陶質土器須恵器を含む陶器全体を示す一般名詞と理解できる。」とあります。
(略)
陶質土器について知りたい。 | レファレンス協同データベース

 つまり、現在「須恵器」と呼ばれている焼き物については、昭和時代に入った頃に学術用語を統一する必要があったことから、かつて「陶器」と書いて「すえの うつわもの」と呼んでいたという記録があったことを踏まえて、「すえ」という「読み」と、「器(うつわもの)」という「漢字」を組み合わせて「須恵器(すえき)」という「新語」を提唱し、これが定着していったということなのです。

 

 これで話がわかりやすくなるのが、堺市にある「陶邑窯跡群(すえ むら かまあと ぐん)」です。ここは、古墳時代に大量の須恵器を生産し、全国に流通させたことで知られる須恵器の一大生産拠点だったのですが、この地について「日本書紀」には「茅渟県陶邑(ちぬのあがた すえむら 筆者注:「茅渟県」は現在の大阪府和泉地方の旧称)」という名称が記載されており、ここで「」が生産されていたことを示しています。つまり、この時代には「」は「すえ」と読まれており、そこではまさに「須恵器」が生産されていたということになるのです。
陶邑窯跡群 堺市


 そこで、「楠見遺跡」です。楠見遺跡から発掘された須恵器は、比較的初期の時代に属する須恵器であると考えられていますが、上記で紹介した「陶邑窯跡群」で製作された須恵器とは異なる形のものが発見されたことが話題となりました。発掘当時は、窯を用いて高い温度で焼成する須恵器の生産には高度な技術力が必要であり、こうした技術が国内に十分定着していない初期には陶邑以外では須恵器を生産できなかったのではないかと考えられていました。このため、楠見遺跡で発見されたような異なる形の須恵器は朝鮮半島から輸入されたものであろうと考えられていたのです。
 ところが、その後、西日本各地で須恵器を焼いた同時代の窯跡が発見されるようになったことから、陶邑以外の場所でも須恵器の生産が行われていたことが確認されるようになってきました。こうしたことから、近年では、楠見遺跡の周辺でも朝鮮半島から渡来した人々によって独自の須恵器生産が行われていたのではないかと考えられるようになってきたようです。
 これについて、和歌山市文化振興課が管理するWebサイト「和歌山市文化財」の「楠見遺跡」の項には次のような解説が掲載されています。

楠見遺跡から出土した初期須恵器
和歌山市文化財「楠見遺跡」より)

楠見遺跡
 昭和42年(1967)の楠見小学校校舎増築工事の際に多くの土器が発見され、昭和44年(1969)に小学校中庭で発掘調査が実施されました。出土した土器は古墳時代須恵器に似ていますが国内で類例が求められないことより、以前は朝鮮半島からもたらされた陶質土器の可能性が高いとみられ「楠見式」と呼ばれました。壺・甕・器台・高杯などに多用されたシャープな突線に特徴があり、特にヘラ・櫛により飾られた器台が有名です。朝鮮半島洛東江下流加耶地域との類似性が指摘され、渡来系の人々により製作された初期須恵器とみられます。
楠見遺跡 | 和歌山市の文化財

 

 上記引用文にある「楠見式」と呼ばれる土器の特徴について、同形式の土器が発掘された押入西1号墳岡山県津山市を紹介する津山郷土博物館発行の「博物館だより No.5(平成3年4月2日)」では、次のように解説しています。

 楠見型土器とは和歌市楠見遺跡から出土した特異な壺・甕・高杯・器台のセットを標式とする土器群で、甕では肩部に乳状の突起をもつことを特徴とする。このような土器は朝鮮半島洛東江中・下流域に広汎に分布するが、国内では和歌山市を中心に大阪府香川県岡山県(本例)に10遺跡が知られているのみである。
博物館だより | 津山郷土博物館

 

 また、公益財団法人和歌山県文化財センター平成26年(2014)2月に開催したシンポジウム「紀ノ川北岸の古墳文化 - 初期須恵器・埴輪・陶棺からみた地域の歴史 -」において記念講演を行った定森秀夫滋賀県立大学は、楠見遺跡で出土した須恵器と朝鮮半島との関係について次のように述べています。

(略)
3. 楠見系須恵器の系統と時期
 日本列島での一大須恵器生産地は陶邑古窯跡群(すえむら かまあと ぐん 大阪府南部)であり、初期須恵器窯もまた陶邑古窯跡群に多く存在する。しかし、近年主に西日本一帯で、初期須恵器窯跡が発見され始め、陶邑窯以外でも初期須恵器が生産されていたことが判明した。ただし、それらの窯のほとんどは短期間の操業で、陶邑窯のように継続しないことが特徴である。
 和歌山市楠見遺跡から出土した須恵器の中で特徴的なのが、未貫通の菱形透孔を縦列に施した無蓋高杯である。この種の高杯は第 3 図(筆者注:以下、図については本引用では省略)に示した 4 世紀代の古式陶質土器内陸様式に見られるものに近い。このような透孔配置の高杯は、5 世紀に入ると慶尚道地域ではほとんど見られなくなる。だだ、大邱新塘洞の窯跡から数量は極めて少ないが、変形した菱形様の未貫通あるいは貫通した透孔を縦列に施した高杯脚部片が、上下垂直透孔加耶系)と上下交互透孔新羅系)の両者とともに出土している。報告者は 5 世紀初ないしは前葉としている。したがって、慶尚道の一部地域ではこのような透孔が 5 世紀前葉まで残っている可能性がある。
 韓国では、4 世紀末から 5 世紀初にかけての陶質土器の変遷が不明な部分が多い。大邱新塘洞窯跡でみられたように加耶系と新羅系が未分化の状態も看取される時期でもある。
 器台は、第 6 図 2 のような筒型器台と第 6 図 5 のような鉢型器台の 2 種類がみられる。後者の鉢形器台は、脚が太いことが特徴で、洛東江河口様式の系統を引いていると言えよう。内陸様式の系譜を引く鉢形器台は脚が細長いことが特徴である。また、肩部に乳頭状突起を付けた大甕洛東江中流域から下流域に見られる形態である。
 したがって、楠見系須恵器は系譜的には洛東江下流域から中流域にかけての陶質土器に近いといえるだろう。時期は、韓国サイドから見て 5 世紀初、上れば 4 世紀末も考慮されよう。
シンポジウム要旨集等|公益財団法人 和歌山県文化財センター

 

 上記引用文にもあるように、日本国内で須恵器の生産が始まったのは古墳時代中期(5世紀頃)と考えられており、楠見遺跡から発掘された初期須恵器も概ね同時代のものと考えられるようです。
 楠見遺跡を含む紀の川河口部北岸は、大和朝廷が成立して以降、大谷古墳が築造された6世紀初頭頃までは朝鮮半島大和朝廷とを結ぶ重要な海上交通路の一角であったと考えられていますので、当時、この地に渡来人が居住して高度な焼き物の技術を伝えたということは当然に考えられることです。
 そして、須恵器の生産が始まったと思われる5世紀頃というのは、ちょうど鳴滝遺跡の巨大倉庫群が建設された時期と合致します。同遺跡において楠見型の須恵器が大量に発見されていることを考えると、現在の楠見小学校の周辺では、朝鮮半島由来の高度な技術を用いて、山上の巨大倉庫群に大量の物資を保管するための大甕や壺などが大量に生産されていたのではないか、ということが容易に想像できるではありませんか。
鳴滝遺跡(和歌山市善明寺)