生石高原の麓から

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夜泣き石 ~有田市箕島~

 この石は、子供の夜泣きを止める効能があるという。もともと愛宕山のふもとの農道脇にあったが、道路拡張のため掘り起こされ、近くの空き地に祠を建てて、まつられるようになった。高さ、幅ともに2メートルはあろうかという巨岩。

 

 天正紀州攻めで箕島へやってきた羽柴秀長が、宮崎城主、隠岐守定秋の末娘、に横恋慕してしまった。しかし霞は、寄寓していた殿本帯刀輝網と将来を誓った仲。二人で城外へ姿を消したのだが、怒った秀長は、ついに宮崎城を焼き払ってしまった。


 やがて、焦土の中で乳飲み子を抱いた女が、この岩の近くに立つという噂が広まった。そして間もなく、女は赤ん坊を岩の上に残したまま、近くの川へ身を投げたが、その子は、霞にそっくりだったという。

 

(メモ:国鉄紀勢線箕島駅の裏手にあたり、駅から約500メートル。国道42号線安諦橋(あでばし)北詰交差点から1キロたらず。)

 

  • 昭和49年(1974)に発行された有田市によれば、夜泣き石には二つの伝承があるとする。

夜泣石伝説
 箕島愛宕山のふもと、長寿荘の西側付近に、昔から「夜泣石」と呼ばれて、夜泣きする子供のために願いをかけると、不思議に効果が現われると伝えられる巨岩が横たわっている。この夜泣石について二つの哀話が伝えられている。
 その一つは今から二百年ほども前、箕島村付近ははぜ(櫨)の木が一面に生い茂っていたものであるが、当時箕島村庄屋の命によって、はぜ畑を見回っていた土着の百姓徳蔵という者がある日山賊に出会って乱闘の末即死した。残された妻子は悲嘆の日々を送るうち、子供が毎夜のように狐にでもとりつかれたかのように泣き狂うようになった。貧しいなかにも医者にもかけ、人力の限りを尽したがその夜泣きは止まらない。この上は神にすがるほかないと、毎夜の如く泣き狂う子を背にして、鎖守の森箕島神社に三 七 二十一日お百度詣りの祈願をかけた。いよいよ今夜が満願という日の真夜中、いつものように神社の森の裏付近まで来たとき、急に気だるい妖気に誘われるまま、ふらふらと足を運ぶうち、いつの間にか愛宕山のふもとの岩の上で、今は亡きが夢か幻か手招いている姿をはっきりとみとめた。恋しさのあまり思わず岩に取りすがったがそのまま気を失ってしまった。数刻を経て気がついたときには、女はわが子を抱いたまま夜露に濡れて岩の上に伏していた。その日から子供の夜泣きはぴたりと止って元気をとりもどした。女は氏神の加護によって夫の霊に出会い、その導きでこの不思議な巨岩の霊験に触れることができたのであった。その女はもちろんのこと、この付近の婦女子は夜泣きする子が出ると神酒と結びを供えて礼拝する習わしとなっている。
 この夜泣石と称えられる巨岩は、地表に出ている部分の大きさだけでも長さ二メートル、巾一メートル半、高さ約一メートルで、地底に深くかなり大きな根を据えた岩石である。
 夜泣石に関するいま一つの伝説に、宮崎城の落城と霞姫悲恋の物語りが伝えられている。「宮崎落城記」によると、この姫が美しかったため、羽柴秀長横恋慕するところとなり、果ては羽柴の憎しみをかい、宮崎一門が相拮抗するお家騒動まではらんで、遂には羽柴の大軍を向うに回して苦戦の末、一族は城の炎上とともに滅ぶ因となったのである。霞姫は隠岐守定秋の末娘であったが、宮崎城に寄寓していた殿本帯刀輝綱と相思の仲となっていて、定秋もこれを容認していた。
 そのに霞姫に横恋慕した羽柴秀長は、己が側室に上げるよう石田三成を通じて申し込んできた。これをめぐって家中上下を挙げて賛否両論に分かれ、果ては陰謀渦巻く舞台となり、家中は騒々しく不穏の雰囲気が漂いはじめたので、姫や輝綱に危害の及ぶことをおそれた母湊御前は、一計をめぐらし、相思の二人に近習新堂次郎之助を付けて城の外に逃がし何処かへ落した。
 その後の二人の消息は伝わっていないが、天正十二年の春、領主定秋は一子定之に跡目を譲ると間もなく没し、湊御前も跡を追った。かくて翌天正十三年の夏、雲霞の如くに押し寄せた豊臣軍総大将羽柴秀長の率いる大軍を向うに回し、明神峯に迎え出た宮崎方は悪戦苦闘の末に敗走、難を避けた領主定之は大崎の港から舟を出して中国の毛利家へ逃れた。かくて嘉応元年の築城から天正の落槭まで約四百年間にわたり、この地に君臨した宮崎氏は亡び、城砦は跡形もなく焼け落ちて、人影さえも消えてしまった。その焦土の中に、一人の乳呑児を抱いた若い女がたたずんでいるのを見かけたと百姓たちが噂をし始めた頃、愛宕山ふもとの川渕の岩上に、錦のかい巻に乳児を包んで寝かせ、身を渕に沈めた若い女性の噂が広まった。人々は誰いうとなく、乳児の顔はかっての霞姫に似ているともいい、乳児はさる人が引取って育てたが、夜泣きする度にこの岩のところに連れてくると泣きやんだとも伝え、霞姫ゆかりの夜泣石ともいわれている。

  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」によれば、宮崎城主宮崎氏の祖は田辺別当湛全の弟・左衛門尉定範とする。

宮崎荘初めて応徳の文書に見ゆ
宮前荘と書す(那智山尊勝寺蔵)
宮崎は宮原と同じく須佐神社在す地にして
此の地海浜の出崎なるより
宮崎とはいふなり
応徳三年(1086) 尚侍藤原氏 
此の地を那智山に施入す(那智山尊勝寺蔵)
嘉応元年(1169) 田辺別当湛全の弟 左衛門尉定範
此の荘を領し
城を野村に築き
子孫宮崎氏と称す

紀伊風土記 第2輯 巻之五十七 在田郡第一)

筆者注:那智山尊勝寺蔵の文書とされるものは「内侍尚侍藤原氏寄進状案」(「内侍」「尚侍」とは宮中において女官のみで構成される組織「内侍司(ないしのつかさ)」の長官職をさす)。「和歌山県地名大辞典 角川書店 1985」によれば、施入者の「内侍尚侍藤原氏」とは関白藤原教通の女・真子とする説もあるが未詳とする。

宮崎氏城址
(前略)
尊卑分脈湛増の子に湛全(たんぜん)あり
承久の乱に誅せらると見えたるは
法印快寶の誤なるべければ
別当湛全の名おぼつかなし
又嘉応は承久より五 六十年も前にして時代もたがへり
紀伊國名所図会 後編巻之二)

  • 戦国時代に宮崎城主であった宮崎隠岐守定秋については、詳細な資料は伝わっていない。しかしながら、一時期は畿内を制圧した三好長慶らの軍勢に対して紀伊国守護であった畠山高政が戦を挑んだ通称「久米田の戦い」において、畠山勢の宮崎隠岐(定秋であるかどうかは不詳。「老巧の将士」とされていることから、年齢を考えると定秋の父と考えるほうが自然か。)が奇襲によって三箇城を落としたと伝えられている。これについては、「重編應仁乱」という書物に記載されているとして個人ブログに紹介されているので、該当部分を引用する。

    河内のキリシタン 6・三箇の落城

例年よりは大雪にて
敵も味方も軍などはなし難き時節なればとて
城兵油断の餘に 加勢の者共も抜け抜け
皆己が在所飯盛の城へ帰り
三箇の城には唯野州の手勢少し残り居たれば
殊の外に無勢なり
畠山の臣 宮崎隠岐老巧の将士なりたれば
三箇城へ忍びを入れて此躰を聞届け
又物見の士を遣はし地形を見定め
高政へ牒し合はせ
同年(永禄5年 1562)12月25日
雪中の鷹狩に出づると披露して
潜に多勢を引率し
各鎧の上の鷹野羽織を著さしめて
鷹を据え犬を引かしめ
三箇城の附近迄道々鷹を遣ひ行く
頓て城近くなりければ
寄手の大勢鬨を作り 旗を差上げ
皆一同に攻入る程に
三箇城の小勢共思ひもよらず
周章騒で防戦にも及ばず
雪中を逃げ回るを
悉く追ひ散らす
(中略)
宮崎隠岐守の武功を褒めぬ人なし

  • 本文では、天正紀州攻め天正13年、1585)で箕島へ来た羽柴秀長霞姫に横恋慕する話となっているが、有田市誌では霞姫が逃げ去った後に天正紀州攻めが起きたとする。立神社(たてじんじゃ 有田市野)の社伝によれば、「天正年間 豊臣氏の南伐に当り 定範の裔当時の城主宮崎定弘相滅し 居城も陥しいれられし」との記述があることから、宮崎城が落城したのは天正紀州攻めの一環の戦であったことは間違いないと思われる。しかしながら、豊臣氏紀伊国に一定の影響力を持ち始めるのは一般的には天正13年3月23日に始まった根来攻め以降であると考えられ、それから数日のうちには紀伊国守護職畠山氏の居城であった岩室城有田市宮原町)が落城していることから、秀長が霞姫に目をつけたのはこの時期以降と考えるのが自然である。宮崎城落城の正式な日付は不明であることから、岩室城に入った秀長が宮崎氏に降伏を呼びかける中で霞姫を所望したが、これを受け入れられなかったため最終的に城を攻め落とした、と考えれば史実との一定の整合性が確保できるか。
  • 宮崎隠岐守定秋の三男・定直(さだなお)は、剣術の達人として広く名を知られており、真田幸村に招かれて慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」(翌年の大坂夏の陣との説もあり)で豊臣方として奮戦したとされる。その後、大阪城を出て有田に向かっていたところ、神明の加護により刀が自然に抜けて追手を斬り倒したことにより命が救われたことから、祠に太刀を収めたという。これが現在宮原神社の末社となっている「太刀宮(たちのみや)」である。この由来について現地の説明板の記述を引用する。

太刀の宮 縁起
この宮は、猿田彦命(さるたひこのみこと)を祭る小社であるが、その昔、元和の始め(1615)大阪夏の陣の砌(みぎり)、当有田市野に在った宮崎城主宮崎隠岐守定秋(みやざき おきのかみ さだあき)の三男宮崎三郎右衛門定直(さぶろううえもん さだなお)は泉州谷川(たがわ)に住していた処、真田幸村(さなだ ゆきむら)の招きに応じ大阪城に入り秀頼(ひでより)の旗下に属していたが、淀君(よどぎみ)の思召宜(よろ)しからず、依て夜陰に紛れて城を脱出、宮原の荘に在る姉婿則岡勘解由左衛門(のりおか かげゆざえもん)を頼って道を急ぐ。この祠の前まで来ると日も暮れ、暫(しばら)く休息しようと腰を下ろすと、疲労の余り不覚にも寝入ってしまった。夢現(ゆめ うつつ)の中に追手迫り来り襲いかかる。防ごうと思うが身体自由にならず、最早これまでと思う時、腰の太刀自然と抜け出し、大勢の相手を切倒す。夢は醒め辺りを見ると、死人数多く太刀は二ツに折れている。不思議に思い、太刀を拾い上げると元の如く継(つな)がった。定直は今見た現実の正夢にあらたかな神明の加護と剣の威徳に恐れ畏(かしこ)み、早速その刀を「折継丸(おれつぐまる)」と名付け、この祠に奉納した。その後、里人等この祠を「太刀の宮」と称えるようになり、病気平癒や災難除けの祈願をするたびに、木刀を奉納する習慣となり今日に至っている。
宮崎定直は泉州へ帰らず、則岡宅に閑居、元和5年36才にて病没す。墓碑は宮原町新町(しんまち)井山の中腹に現存している。
  平成十一年三月
          有田市教育委員会

  • メモ欄中、安諦橋交差点を通る道路については、国道のバイパスができたことから現在は「国道42号線」から「県道有田湯浅線」に変更されている。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。