生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

中将姫 ~有田市糸我~

 「嫁をとるなら糸我の会式 むこをとるなら千田祭り」。

 古くから歌にも歌われた糸我・得生寺の会式は、有田市の二大祭りのひとつ。若者たちによる勇社な喧嘩祭り(千田祭り)に比ベ、糸我の会式は、みやびなお渡りと、大勢の娘たちが集まることでよく知られている。

 

 その得生寺の背後の、小高い雲雀山に、継母にいじめられ、奈良の都から逃れてきた中将姫の悲話が残る。

 

 いまから1250年も前のこと。奈良の都に、右大臣をつとめる藤原豊成がいた。子供がない豊成は、妻と二人で長谷観音へ「どうか子供が授かるように」と願がけに通いつづけ、満願の夜、二人そろって美しい観音さまの夢をみた。そして1年後に女の子が生まれた。琴が上手な、可愛いい女の子だったが、5歳のときに母親がなくなり、照夜の前という新しい母親を迎えると間もなく、豊寿丸という男の子が生まれた。女の子は、琴の腕前を聞いた聖武天皇から「中将姫」の名を許された~。

 

 悲劇はここから始まる。権勢を誇った豊成だったが、照夜の前の、中将姫への嫉妬までは気がつかなかったのだろう。照夜の前の悪だくみが続いた。

 桃の節句の日、照夜の前は、ごちそうの中に毒を入れた。ところが中将姫は食べず、豊寿丸が食べ死んでしまった。すると以前にもまして、照夜の前中将姫の命をねらう。中将姫はとうとう家来と家を逃げだした。着いたところは、豊成の狩場、雲雀山だった。

 

 糸我の里に小屋をつくった中将姫は、山の頂上の石を机に、写経に励んだ。
 ところがある日、ついに刺客に襲われた。執念深い照夜の前が差し向けた伊藤春時だった。中将姫は観念して手を合わせた。だが刀を振り上げた春時は、姫の背後に仏の姿をみた。全身がしびれてしまった。


 「あなたは長谷観音の生まれ代わり。これからは、わたしが姫をお守りします
 姫の着物の柚を切り落とした春時は、自分の足を突いて刀に血をつけ、都へ帰って上司の国岡将監に報告した。しかし、着物だけで照夜の前を信用させることができるだろうか。と、そのとき、中将姫とウリ二つといわれていた将監の娘、瀬雲が胸を突いた。話を聞いた瀬雲が、小さいころから仲良しだった姫の身代りになったのだった。

 

 瀬雲の首を、中将姫の袖に包んで照夜の前にさしだした春時は、妻子を連れて糸我に引き返してきた。そして刀を捨て、名も得生と改めた。

 

 「なかなかに 山の奥こそ住みよけれ 草木は人の とがをいわねば
と、糸我の里の住み心地のよさを詠んだ中将姫だったが、翌年の正月、春時が急に亡くなると、人の世のはかなさを知り、以前にもまして写経に励んだ。一方、奈良の都では、各地の見回りから帰った豊成が、姫のいないことに気がついた。照夜の前にただすと、よくないことばかりしたので、親子の縁を切って追い出したという。悲嘆に暮れる豊成に、将監熊野詣でをすすめた。そして途中、雲雀山へ豊成を案内し、二人を対面させた。


 ときに中将姫は15歳。豊成とともに都へ帰った。照夜の前は家を出て行方がわからなくなっていたが、身代りとなった豊寿丸瀬雲のことが忘れられない姫は、夢枕に立ったに「蓮の茎で曼陀羅を作りなさい」と告げられたことで、全国から蓮を集めて1丈5尺(約5メートル)四方の浄土曼陀羅二枚を作り、一枚を糸我の得生寺に納めた。
 すると再び、が夢に現われ、「13年後に迎えにきます。花のうてな(あの世)で会いましょう」という。中将姫は、その言葉通り、13年後、29歳でなくなったという。


 青丹よし奈良の都から、草深い紀州の地へ逃れた中将姫は、どんな気持ちだったのだろうか。その不遇の姫が眺めたであろう有田川だけが、いまも四季折々の風情を映しながら、流れ下る。
 そして人々は、5月13、14日の会式で中将姫をしのぶ。

 

(メモ:得生寺は国道42号線から200メートル。国鉄紀勢線紀伊宮原駅から歩いて20分。中将姫の作という「蓮糸縫三尊」「紺紙金泥三部経」「称讃浄土経」や、重要美術品の「当麻曼茶羅図」などがあり、開山堂には中将姫と春時の座像を安置している。また雲雀山には「机の巌」や「経の窟」などもある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

  • 中将姫(ちゅうじょうひめ 747 - 775)は、當麻寺(たいまでら 奈良県葛城市)に伝わる国宝の「當麻曼荼羅(たいま まんだら 国宝としての名称は『綴織當麻曼荼羅(つづれおり たいま まんだら)』)」を織ったとされる伝説上の人物

 

 先述の『建久御巡礼記(筆者注:建久2年(1191))』によれば、当麻曼荼羅ヨコハギ(横佩)大納言という人物のの願により化人(けにん、観音菩薩の化身か)が一夜で織り上げたものであり、それは天平宝字7年(763年)のことであったという。
 12世紀末のこの時点では「中将姫」という名はまだ登場していない。

 13世紀半ばの『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)ではヨコハギ大納言の名は藤原豊成とされており、以降、父の名は右大臣藤原豊成、娘の名は中将姫として定着していく
 中将姫の伝承は中世から近世にかけてさまざまに脚色されて、浄瑠璃歌舞伎などにも取り上げられるようになり、しだいに「継子いじめ」の話に変質していく。話の筋は要約すると次のようなものである。

 

 今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。
 後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。
 中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。
 ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。
 その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。
 姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。
 姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。
 當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。
 姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。

 

この話はよほど人気があったようで、世阿弥近松門左衛門らによって脚色され、謡曲浄瑠璃歌舞伎の題材ともなった。 

 

  • 前述の伝承によれば、當麻曼荼羅中将姫が蓮の茎から取った糸で編みあげたとされているが、昭和に入って行われた細密な調査と学術的検討により、蓮糸ではなく絹糸で「綴織(つづれおり)」という技法によって絵画的図様が織り表されたものであることが明らかとなった。また、他に例を見ない緻密で高度な綴織技術から中国・唐での製作と考える説も強いとされる。

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  • 當麻曼荼羅(たいま まんだら)」という語は、上記の中将姫ゆかりの国宝を指す場合と、その図案の様式を指す場合とがある。中将姫ゆかりの国宝曼荼羅の図像は、観無量寿経に基づく阿弥陀浄土変相図という形式を有しており、画面左側に摩掲陀(まがだ)頻婆娑羅(びんばしゃら)入信の図、右側に釈迦韋提希(いだいけ 頻婆娑羅王の妃)に対して説いた十三観法(浄土のありさまや阿弥陀仏の姿を心に想い浮かべる方法)の図、下側に九品往生(くほんおうじょう 極楽浄土へ往生する際の九つの等級)の図、そして中央に阿弥陀如来の浄土の図、をそれぞれ描いていることが特徴。後にこの図案を模写した作品が多数制作され、全国に広まった。この図案を用いた作品を総称して「當麻曼荼羅」と呼ぶことも多い

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中将姫は奈良期の公卿藤原豊成の娘。
 享禄本の当麻寺縁起に継母の命を受けた武士に紀州在田(ありだ)郡、(ひばり)のふもとで討たれるところであった姫をその武士が助け庵を結び養育したとある。
 「風土記」に載せる寺伝では、鶬山は糸我山の北東にあり、武士が結んだ庵が当寺の前身であるという。
 また武士は伊藤春時といい法号得生が当寺号になったと伝える(寺伝)
中将姫伝説の成立は、増上寺(東京都)開山で浄土宗鎮西派酉誉聖聡が室町初期に著した「当麻曼陀疏」が鶬山を有田郡とし、同時期浄土宗西山派光雲明秀和歌山市総持寺開山)が有田地方の教化活動を行っていることから、室町初期ごろではないかと思われる。

 

  • 嫁をとるなら糸我(いとが)の会式(えしき)」と俗にうたわれるのは、毎年5月14日に得生寺で開催される「得生寺の来迎会式(らいごう えしき)」、通称「中将姫会式」と呼ばれる行事のことを指す。これは、中将姫が菩薩の迎えを得て大往生を遂げたという説話に基づき、その様子を再現するものとされている。当日は、姫を祀る開山堂から本堂まで朱塗りの回廊が設置されて、道中清めの僧を先導に、羽織はかま姿の女児がりんを鳴らしながら姫の一生を物語にした「中将姫和讃」を唱和する和讃講、願主女性が扮する地蔵菩薩、25人の子供が菩薩の面を被り袈裟や緋の衣をつけた二十五菩薩、加えて大導師(得生寺住職)ほか多数の僧らが本堂までお渡りをする。この行事は「二十五菩薩練供養(ねりくよう)」として和歌山県無形民俗文化財に指定されており、当日は露店も出て境内は大いに賑わう。
    第13回来迎会式~二十五菩薩の練り供養~ - LIVING和歌山

 

  • 「糸我の会式」と並び称される「千田祭り(ちだ まつり)」は有田市千田の須佐神社(通称:千田さん)で毎年10月14日に行われる祭。「千田の喧嘩祭り」との異名を持ち、神輿渡御は重さが1トン近い大神輿を急な石段から滑り落とし、担いでは投げ担いでは投げ、しまいには海中に引きずり込んで沈めてしまう荒々しいもの。また、神前に供えられた6尾の鯛をやぐらの上から投げて取り合う「鯛投神事(たいなげしんじ)」は、男衆が本気の喧嘩腰でこれを奪い合う激しいものである。
    関西三大喧嘩祭り|和歌山有田の【千田祭】

 

  • 伝承において、中将姫が置き去りにされた場所である「ひばり山」については、本文にあるように有田市糸我とする説のほか、橋本市恋野とする説、奈良県宇陀市とする説がある。

 

  • 橋本市では、恋野地区にある雲雀山が中将姫の旧跡であるとする。同地区にある雲雀山福王寺は、中将姫が建立した三つの庵(雲雀山庵、滝谷垣内庵、運び堂)を合併して宝暦8年(1758)に建立したと伝えられ、堂内には中将姫の位牌(中将姫法如大菩薩)が安置されている。また、そもそも「恋野」の地名が、中将姫がこの地で母を偲んで詠んだ「母恋し 恋しの野辺や…」との歌(全文は不詳)に由来すると伝えられているほか、中将姫が身を隠していた「中将倉」、姫の命を救うために「姫は昨年亡くなった」と照夜の前に偽りの報告したことにちなむ「去年川(こぞがわ)」、姫がこの川に架けた橋であるとされる「糸の懸橋」、姫がここで手を振ると指先から五色の糸が出て美しい布が織られたと伝えられる「布経(ぬのへ)の松」、姫が観音様を祀った「中将の森」など、多数の旧蹟がある。
    橋本高野口の文化財探訪3

 

  • 奈良県宇陀市では、同市にある日張山(ひばりやま)と同山の山腹にある日張山青蓮寺(ひばりやま せいれんじ)が中将姫伝説の舞台とする。同寺の伝によれば、姫は松井嘉籐太春時(まつい かとうた はるとき)と妻静野(しずの)によって命を救われたことから、奈良の都に戻って當麻曼陀羅を感得した後、再びこの山に来て自らの像と嘉藤太夫婦の像を刻んで安置したとする。現地にある説明板には次のように記載されている。
    日張山青蓮寺ホームページ

奈良朝天平宝字4年(760)、横佩の右大臣藤原豊成公の息女中将姫が継母のざん言により14歳の身をもってこの山に配流されたが、その家臣、松井嘉籐太春時と妻静野の情けにより危うきを助けられ、ここに草庵を結び
 なかなかに山の奥こそすみよけれ
   草木は人のさがを言わねば
と閑居練業、2年6ヶ月、念仏三昧の生活をおくられた
そのうち父君がこの地に狩に来られて、不思議な再会を得て奈良の都に帰られたが、菩提の志止みがたく遂に当麻寺に入り、出家剃髪の身となり、法如尼と名乗られた
その後、当麻曼陀羅を感得され、19歳の夏再びこの山に登り一宇の堂を建立して、自らの影像と嘉藤太夫婦の形像を手づから刻み安置して、ひばり山青蓮寺と名づけ永く尼主の道場とされた由緒ある山寺である。

 

  • 東京都に本社を置く株式会社ツムラ(昭和63年(1988)に「津村順天堂」から社名変更)は、明治26年(1893)の創業当時から婦人用生薬製剤「中将湯」の生産販売を行っていた。同社のWebサイトによれば、中将姫が家を出て最初に身を寄せたのが初代津村重舎(津村順天堂の創業者)の母方の実家・藤村家であり、当麻寺で薬草の知識を学んでいた中将姫が庶民に施していた処方を藤村家に伝えたものが、藤村家家伝の薬・中将湯となったとのことである。
    中将姫物語 : ツムラの歴史 | 会社情報 | ツムラ

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。