生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

将軍塚古墳(和歌山市岩橋 県立紀伊風土記の丘)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前項では全国有数の古墳密集地区である岩橋千塚古墳群(いわせ せんづか こふんぐん)と、その保全・公開を目的として開設された県立の博物館施設「紀伊風土記の丘」の概要について紹介しました。今回は、石室が一般公開されている「将軍塚古墳」を中心に、紀伊風土記の丘にある古墳について紹介します。 

 

 前項で紹介したように、紀伊風土記の丘国の特別史跡に指定された岩橋千塚古墳群保全公開を目的として開設された県立の博物館施設です。このため、敷地内にある古墳のいくつかは実際に石室の内部に入って見学することができます。
 紀伊風土記の丘公式Webサイトに掲載されている「散歩マップ」によれば14か所の古墳で石室が公開されているとのことですが、この中で最も大きな規模を有しているのが「将軍塚古墳」です。
和歌山県立紀伊風土記の丘 マップ

 この古墳については、和歌山市を中心に配布されているタウン紙ニュース和歌山」の「わかやま古墳めぐり」という特集において紀伊風土記の丘田中元浩学芸員が次のように解説しています。

 長さ42.5メートルで、同時期にできた天王塚古墳の半分位です。前方後円墳で、前方部と後円部に2つの横穴式石室があり、現在は後円部の石室を公開中です。後円部の石室は遺体を収める玄室の高さが4.3メートルと天王塚古墳の5.9メートルに次ぎ、石棚石梁(いしはり)が1枚ずつあります。
 また、せん道と呼ばれる通路の入口と玄室入口には、化粧石と呼ばれる板石が立てられます。そして高さ1.8メートルの扉石を用いて入口をふさぎます。現在、せん道にこの扉石が立てかけられており、その大きさを実感することができます。
 古墳の大きさや玄室の高さから見て、当時のナンバー2の古墳なので、将軍塚古墳に葬られた人は生前、天王塚古墳に葬られた人の補佐役だったのでしょうか。
※筆者注:和歌山市吉礼・下和佐にある県下最大級の前方後円墳。当初は国の特別史跡の指定外であったが、詳細な調査を経て平成28年(2016)、特別史跡に追加指定された。

www.nwn.jp

 

 上記引用文中に、この石室には「棚と石梁が1枚ずつあります」と書かれていますが、この形式を有する古墳は「岩橋型横穴式石室」と呼ばれ、他の地域には見られないこの地域独特の形式を有しています。和歌山市内では、晒山古墳群楠見遺跡など紀の川北岸にも古墳時代の遺跡が多数存在しているのですが、岩橋千塚古墳群はこれらともまた異なる独自の形式の文化を有していたようで、これが前項で紹介した紀氏の勢力範囲を示す有力な資料であるのかもしれません。

 ちなみに、将軍塚古墳の内部はgoogleマップストリートビューでも見ることができますが、これだけでは石棚石梁の状況がわかりにくいと思いますので、和歌山県教育委員会が制作した「ふるさと教育読本 わかやま発見」に掲載されている解説図も掲載しておきます。見比べていただけると興味深いのではと思います。

わかやま発見|目次

第2編 第1章 紀州のあけぼのと古代人 「古墳文化のひろがり」より

 次項では、上記文中でも触れられていた「天王塚古墳」について紹介したいと思います。