生石高原の麓から

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住持が池と小野小町 ~岩出町(現岩出市)根来~

 山あいに、かくれるようにして大きな池があった。春まだ浅いせいか、冬枯れの野面には、人の影はなく、動くものといえば、冷たい風にそよぐ枯れすすきだけ。
 古来、水にまつわる話は、余りにも多い。この住持が池も、大蛇に化身した深草少将と、絶世の美人といわれた小野小町の、愛憎の葛藤の果てを伝える。

 

 そのころ、小町は京のある尼寺にいた。彼女のもとへは、その美ぼうをしたって、多くの男たちが訪れたが、深草少将も熱心に通いつめていた一人だった。

 しかし、そんなに毎日毎日、男たちにいい寄られては、いかな小町とてかなわない。そこで一計を案じた。 

 「あなたのお気持は、よくわかります。でも、あと百日待って下さい。百夜、欠かさずここへお参り下さったなら、きっとあなたの望み通りにいたします
 勇気を得た少将、こんどは以前にもまして、熱心に尼寺へ通いはじめた。そしてついに、あと一日というところまでこぎつけた。
 ところが、驚いたのが小町。まさか百夜も欠かさずに通いつめようとは思ってもみなかったのだが、約束の日は明日。このままでは、気の進まない少将の、いいなりにならなければならない……。

 小野小町といえば、平安前期の漢学者であり歌人でもあった小野篁(おののたかむら、802~852年)の女というから、いまから1130年も昔のことだ。
 結局、小町は一人の侍女を連れて都を逃れる。

 泉州を経て、根来のあたりへ下ってきたのだろうか。
 さて、泉州に近い境谷を越え、ようやく安上までやってきた小町主従。うしろから、怒り狂って馳けてくる少将をみつけて、立ちすくんだ。 

 「このままでは追いつかれます。わたしが身代りになります。どうか逃げて下さい」小町の衣装をまとった侍女が、一人とぼとぼと池のほとりまできたとき、ついに少将に追いつかれた。

 「わたしはイヤです。この池へ飛び込んで死にます
 少将につかまれた手を振りほどこうとしたとき、二人の顔が合った。

 「お前は侍女ではないか。そうか、小町は逃げたのだな。だったら、わたしは死ぬ。小町よ、決して忘れないぞ
 叫ぶなり、小将は池に身を躍らせた。と見る間に、少将の姿は猛り狂う大蛇に化身して行った。

 このあたりは、紀仙郷県立自然公園の一角。池の中に、二つの島がある。大中山、小中山といい、水ぎわ近くまで、松の木と雑木が茂っている。池のすぐ下の坂本神社の森も、あくまでも静かだった。
 池の周田は、ほぼ一里(約4キロ)という。
 「ここらの田んぼに、水を送っています。200ヘクタールぐらいですかな
 同行してくれた町役場の若い職員の声に、ふと、われに返った。そういえば、近くのゴルフ場の黄色い芝の上を歩く男たちの談笑も、間こえてくるようだった。

 「小野小町がねえ、そうですか…。こんなところに…
 常に、華やかな場に立ち、繊細流麗な歌を詠んだとされる三十六歌仙の一人。だが、ここに伝わる話は、少将の亡霊に悩まされ続け、ついには狂い死んだという、女の悲しい性(さが)と業を語る。 

 いまこのあたり、山のはざまに田畑がひろがり、人家が点在する。曲がりくねった、細い町道のわきには、ストックを栽培するビ二ールハウスが立ち並ぶ。その丸い屋根が、弱い冬の陽光をはね返していた。
 さっと通り抜ける風に誘われたかのように、池の面に、さざ波が立った。むかし、里の人たちは、そこに、大蛇に姿を変えた男の執念を感じたのだろうか。小町の伝説は、さらに「室家の娘」の話を生み、伝えて行く。

室家の娘 ~岩出町(現岩出市)根来~ - 生石高原の麓から

 

(メモ:住持が池は、根来の集落のすぐ上手。県道粉河加太線から約1.5キロ、国道24号線バイパス入り口から約3.5キロ、国鉄和歌山線岩出駅から車で10分。)

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住持池
  • 小野小町(おのの こまち 生没年不詳)は、平安時代前期の女流歌人。絶世の美女として数々の逸話が残されており、後に能や浄瑠璃などの題材としても取り上げられているが、当時の姿を描いたとされる絵や彫像は現存せず、経歴の多くも不詳である。
  • 本文では小町は平安時代初期の公卿・小野篁(おのの たかむら、802 - 852)のとの説を取るが、他にも小野篁の孫(篁の息子である小野良真の娘)とする説や、出羽守・小野滝雄とする説などがある。
  • 深草少将小野小町のもとへ通い詰めたという話は、「百夜通い(ももよがよい)」としてよく知られているが、これは深草少将の存在も含めて世阿弥などの能作者たちによる創作であるとされる。しかしながら、中世以降、この物語は小野小町の恋愛遍歴を象徴するエピソードとして民間にまで広く流布したため、深草少将の最期については多くのバリエーションが生まれて、各地に伝えられている。また、民間伝承では、後に小野小町が年老いて衰え果てる姿も同時に伝えており、全体として「衰老落魄説話」という形式をとることが多い。(Wikipedia 「百夜通い」の項より)
  • Webサイト「京都通百科事典」では、「百夜通い伝説」として次のような4種類の伝説を紹介している。(https://www.kyototuu.jp/Life/LegendMomoKayoi.html

小野小町に想いを寄せる深草少将が、求愛をしたところ、「百夜、通い続けたら晴れて契りを結ぶ」との約束をされた
深草少将は、深草から小野小町の住む小野の里まで約5kmを毎晩通い続けていた

(伝説1)
小野小町は、深草少将が毎日運んできた(かや)の実で深草少将の通った日を数えていた
99日目の雪の日
深草少将は、99個目の榧の実を手にしたまま死んでしまう
小野小町は、深草少将の供養のため、99個の榧の実を小野の里にまいたという

(伝説2)
深草少将は、99日まで通い、100日目の最後の晩、大雪のため途中で凍死してしまう

(伝説3)
小野小町は、深草少将が毎日運んできた99本の芍薬(しゃくやく)を植え続けてきた
100日目の夜
秋雨が降り続く中、途中の森子川にかかった柴で編まれた橋で、100本目の芍薬を持った深草少将が橋ごと流されてしまう
小野小町は、月夜に船を漕ぎ出し、深草少将の遺骸を探し、岩屋堂の麓にあった向野寺に安置して、芍薬1本1本に99首の歌を詠じ、「法実経の花」と称した
その後、小野小町は、岩屋堂に住み、香をたきながら自像をきざみ、92才で亡くなった

(伝説4)
深草少将の死後、小野小町は、深草少将の怨霊に取り憑かれて物狂いになり、乞食の老女となった

 

<伝説の舞台>
小野小町が住んでいた庵(後の随心院)は、深草から百夜通いする距離に適した小野にある寺
小町寺は、比叡山によって管理された共同墓地の寺で、小野小町深草少将の幽霊が出没するという話に適していた

  • 小野小町にまつわる「衰老落魄説話」のひとつとして、和歌山市湯屋には熊野詣での途中で行き倒れとなって落命した小町の菩提を弔うために建てられた「小町堂」の跡が残り、和歌山市にある遍照寺にはその際の年老いた小町の姿を写したものとされる木像が伝えられている。
  • 住持池(じゅうじいけ じゅうじがいけ)は、岩出市根来にある灌漑用ため池。平成3年のため池台帳によれば有効貯水容量は37万8千立米で、紀の川流域のため池としては畑田池橋本市)、櫻池紀の川市についで3番目の大きさである(現在は堤体改修や一部埋め立て等により貯水容量は変化している)。
  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「住持ヶ池」の項には次のような記述があり、池の名称は根来寺の住持の僧(寺院を管理する主僧)がこのため池を作ったことに由来するものとされる。

村の乾(西北)の山裔(すそ)にあり此ノ辺の大池なり、
池の中に二ツの小島あり
池の西の方堤の上に二ツの小祠あり
一ツは水神を祭り 一ツは池を作りし住持の僧を祭るといふ
因て住持房の社といふ
根来寺の住持 此ノ所の地利を考へて
池を作りて民の利を興す
然れども年暦等伝らず

  • この物語で深草少将が大蛇の姿に変身したこと、及び次の項で紹介する「室家の娘」の物語でも大蛇がこの池から現れること、により「住持池」は「住蛇池(じゅうじゃいけ じゅうじゃがいけ)」とも呼ばれるようになったと伝えられる。
  • 紀仙郷県立自然公園は平成21年(2009)に大幅な見直しが行われ、龍門山の山頂付近のみを龍門山県立自然公園と名称を変えて存続させたが、当地を含む他の区域は県立自然公園の指定から除外された。これは、平成18年度(2006)から和歌山県が取り組んだ全国初となる県立自然公園の抜本的見直しに基づくもので、もともと規制の厳しい特別地域を有さず届出のみで開発行為が可能であった紀仙郷地区については、特に保護すべき自然が残されている地域についてのみ規制を強化して存続させることとし、他の区域については区域指定を解除して規制緩和を図ったものである。
  • 現在、住持池のすぐ西側を県道泉佐野岩出線が通るものの、道路から住持池を直接望むことはできない。本文中にある坂本神社から堤防に出ることができる。 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。