生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

2020-05-01から1ヶ月間の記事一覧

名号と秤石 ~和歌山市大垣内~

大垣内の光恩寺は、浄土宗名僧の一人とされる信誉の開山。天正15年(1587)4月のことといい、いまも信誉直筆の「南無阿弥陀仏」の名号が残る。タテ1.9メートル、ヨコ55センチ。

和佐大八郎 ~和歌山市称宣~

弓のチャンピオン和佐大八郎は、昔の和佐村の出身。24歳のとき、京都・三十三間堂の「通し矢」で、一昼夜に8133本を記録、一躍日本一の弓の名手になったという。貞享3年(1686)4月のことだった。

太田城物語 ~和歌山市北太田~

来迎寺の境内は、すぐそばの通りの騒音が、まるでウソのような静けさだった。その広くもない境内に、高さ3メートル、幅1.2メートルほどの大きな碑があった。表に「太田城趾碑」。

淡嶋さん ~和歌山市加太~

春。加太の海辺は、静かだった。やがて潮干狩り、海水浴と、日増しに娠うであろう波打ち際には、気の早いこどもたちが、そこここに見えるだけ。打ち寄せる波も小さい海は、まだ半分眠りの中にあった。

白髪餅 ~和歌山市直川~

「直川観音」ともいう本恵寺は、大宝(8世紀初頭)のころ、役小角(えんのおづぬ = 役行者)が開いた古刹という。のち、桓武天皇(782~805年在位)の勅願寺になったといい、向拝は珍しい紫宸殿づくり。

白鳥の関 ~和歌山市湯屋谷~

わが背子が 跡ふみもとめ追ひゆかば 紀の関守は い留めなむかも 岩出町との境界あたり。雄の山峠に向かって爪先上りになる舗装路のわきに、木の標識板がポツンと立っていた。神亀元年(724)10月、聖武天皇の玉津島行幸の供に旅立った夫を追う妻の、情熟を詠…

旧野上町(小川地区) 昭和40年代

我が家のアルバムの中から、地元の昔の民俗や習慣を記録した写真をピックアップしてご紹介します。 なお、これらの写真は地元の小学校の課外授業として私の父が行った講演を再構成したものですので、コメントは小学生を対象にした書き方になっています。 ---…

旧野上町(小川地区) 昭和30年代

我が家のアルバムの中から、地元の昔の民俗や習慣を記録した写真をピックアップしてご紹介します。 なお、これらの写真は地元の小学校の課外授業として私の父が行った講演を再構成したものですので、コメントは小学生を対象にした書き方になっています。 ---…

昭和30年頃の小川小学校・小川中学校

我が家のアルバムの中から、地元の昔の民俗や習慣を記録した写真をピックアップしてご紹介します。 なお、これらの写真は地元の小学校の課外授業として私の父が行った講演を再構成したものですので、コメントは小学生を対象にした書き方になっています。 ---…

旧小川村 昭和20年代

我が家のアルバムの中から、地元の昔の民俗や習慣を記録した写真をピックアップしてご紹介します。 なお、これらの写真は地元の小学校の課外授業として私の父が行った講演を再構成したものですので、コメントは小学生を対象にした書き方になっています。 ---…

旧小川村 昭和のはじめ頃

我が家のアルバムの中から、地元の昔の民俗や習慣を記録した写真をピックアップしてご紹介します。 なお、これらの写真は地元の小学校の課外授業として私の父が行った講演を再構成したものですので、コメントは小学生を対象にした書き方になっています。 ---…

旧小川村 大正のころ

我が家のアルバムには、ふるさとの民俗や習慣を記録したたくさんの写真が残されています。 中には、明治や大正時代の田舎生活をよく表した貴重なものもありますので、Web上で公開させていただきます。 なお、これらの写真は地元の小川(おがわ)小学校の課外…

旧小川村 明治の終わり頃

我が家のアルバムには、ふるさとの民俗や習慣を記録したたくさんの写真が残されています。 中には、明治や大正時代の田舎生活をよく表した貴重なものもありますので、Web上で公開させていただきます。 なお、これらの写真は地元の小川(おがわ)小学校の課外…

ブログに移行しました

インターネット黎明期に「生石高原の麓から」と題した個人Webサイトを公開していたのですが、ここのところ久しく更新できていません。 個人サイトはいずれ閉鎖する予定ですが、一部の写真や記事については一応Web上に残しておきたいと思うので、それらの内容…