生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

2020-05-01から1ヶ月間の記事一覧

若狭の八百比丘尼 ~貴志川町(現紀の川市)丸栖~

人魚を食べると不死身になる~。そんな話は西欧に多いが、この日本版とでもいえそうな話が貴志川に残されている。

三船神社 ~桃山町(現紀の川市)神田~

一面に、桃畑がひろがっていた。ピンク色のみごとなジュウタンが姿を消したあとの畑では、濃緑の葉の中に、みずみずしい桃が、日ごとにいろどりを増して行く。桃山の一年は、桃に明け、桃に暮れる。

美福門院の墓 ~桃山町(現紀の川市)最上~

鎌足以来の名門、藤原主流の長実の子として生まれ、のち鳥羽天皇の妃、近衛天皇の母となった得子-美福門院(1117~1160年)閑居の地とされる「安楽川荘」。その一角に最近、小さな祠ができた。門院の遣骨を葬った地という。

塩塚のいわれ ~桃山町(現紀の川市)最上~

山がちの紀州には珍しく、広々とした水田がひろがり、あちこちに桃畑とミカン畑が点在していた。そんな、のんびりとした田園地帯の片隅に、ひとつの碑があった。

華岡青洲 ~那賀町(現紀の川市)西野山~

車一台がどうにか通れるほどの、曲がりくねった道をたどると、生垣に囲まれた小広い一角に出た。 「ここが生家跡です。墓はすぐそこです」

鶴千代姫物語 ~粉河町(現紀の川市)中鞆渕~

紀の川の水面がキラキラと輝やき、その向うに、飯盛山がなだらかな起伏をみせていた。 飯盛山(標高746メートル)と竜門山(757メートル)で、紀の川流域と区切られた鞆渕には、後堀河天皇(在位1222~1232年)の局となった鶴千代姫が、天皇のはからいで石清…

籠祇王物語 ~粉河町(現紀の川市)粉河~

粉河寺から東へしばらく行くと、小山にはさまれた小広い一角にたどりつく。このあたりが白拍子・籠祇王(ろうぎおう)が、捕われの父のために舞いを舞ったところという。

粉河寺 ~粉河町(現紀の川市)粉河~

広い境内は、閑散としていた。大門のあたりのざわめきも、枯山水の石庭のあたりまでは届かず三々五々、本堂を訪れる参拝客の、ひそやかな話し声だけ。

障子生え ~打田町(現紀の川市)神通~

曲がりくねった県道を、ほぼ登りつくしたあたりに、庄司利一さんの家があった。 ある日、犬鳴山の近くで狩りをした紀州の殿さま。途中、ひと息入れた農家で、近くの山のクンノキダキ(栗の木谷)というところに大蛇がすむ~と聞いて、にわかに冒険心がわきだ…

虎御前 ~打田町(現紀の川市)池田新~

神通へ向う打田線の途中。玉ネギ畑の奥の権現寺の土塀は朽ちかけていた。その境内右はずれの一角に、曽我十郎の愛人だったという虎御前の墓がある。

義人・内田馬之丞 ~打田町(現紀の川市)打田~

慶安2年(1649)、打田の村人たちは、過酷な年貢の取り立てに塗炭の苦しみを味わっていた。前年、禁伐の山から用材を伐り出せという代官の命令を断わったがための仕打ちだった。

茶わん渕 ~美里町(現紀美野町)~

初生谷(ういだに)を過ぎ、真国川をさらに奥へ入ると、金の茶わんが流れてきたという鍋谷川がある。山深く、訪れる人も少ないが、孝行娘の話が残っている。

天狗岩 ~美里町(現紀美野町)初生谷~

美里町も那賀郡桃山町に近い初生谷(ういだに)の滝の奥に、二重になった大きな岩がある。いまから300年ほど昔のこと。この岩が、村人たちの話題を集めた。「人のカでは、とてもあんな大きな岩は運べない。天拘が運んだんでは」「天拘が運んだのなら、転がす…

蛇岩大明神 ~美里町(現紀美野町)上ケ井~

弘法大師が上ケ井(あげい)の里を通ったとき。道にいた小さな蛇をまたいだところ、蛇は「わしは上ケ井の里の守り神じや。またぐとは何じゃ」と怒り、見る間に大蛇になった。そして「わしは大きくも小さくもなるんじゃ」と、今度は小さくなって岩の中へ入っ…

べんずりさん ~野上町(現紀美野町)釜滝~

「釜滝薬師」は別名「べんずりさん」。眼の病気を治してくれるという。

興津権之丞 ~野上町(現紀美野町)奥佐々~

約400年前、生石山のふもとに興津権之丞という、弓の名人が住んでいた。農民の味方で、村には梅が多いことから、「梅本殿」といわれるほど尊敬されていた。

やけど観音 ~下津町(現海南市下津町)小原~

800年ほど前というから、鎌倉初期の話か。小原にある正福寺に雷が落ち、村全部が焼けてしまった。

筆捨松 ~海南市藤白~

藤白坂に「おごり」を戒めた「筆捨松」の話が残っている。 平安初期、風景や風俗画に新様式を開いた官廷絵師、巨勢金岡(こせ の かなおか)が、熊野詣での途中、峠の技ぶりのよい松に腰をかけ、写生をしていた。そこへ一人の童が出てきて、「どちらが上手か…

鈴木屋敷 ~海南市藤白~

藤白神社の境内に「鈴木屋敷」というのがある。全国の「鈴木姓」の総本家といい、ルーツブームに乗って、全国から大勢の人が訪れるようになった。

有間皇子の悲劇 ~海南市藤白~

海南市に藤白という地がある。藤白の峰を下ったあたりの藤白坂。そこに、生垣に囲まれた歌碑がひとつ。 家にあれば 笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば推の葉に盛る

春子稲荷 ~和歌山市紀三井寺~

見あぐれば 桜しまうて 紀三井寺 貞享5年(1688)。高野山から和歌浦、そして紀三井寺へと足を急がせた芭蕉。だが、はやる心をよそに、紀三井寺の桜は、もう散り急いでいた。芭蕉の眼を見張らせ、落胆させたほど、紀三井寺の花の季節は早かった。

鷹ノ巣 ~和歌山市雑賀崎~

くねくねと曲がる石段を下りると、もうそこまで波が打ち寄せていた。青っぽい岩が、春の陽光に映え、透明な水底の岩は、一段と青味をおびてみえる。 おっかな足どりで、鉄板敷きの狭い橋を渡りきったところに、ぽっかりと、岩が大きな口をあけていた。

秋葉の大蛇 ~和歌山市和歌浦東~

国道42号線を高松から少し南へ行ったところに、秋葉山がある。そのすぐ南側、羅漢寺裏手の秋葉大権現への参道途中に、小さな祠がある。 「秋葉の大蛇」をまつるという。

汗かき阿弥陀 ~和歌山市松ケ丘~

かつて瑞林寺の本尊、阿弥陀如来像が泥棒よけにご利益があると、多くの参詣者たちでにぎわったという。

高松の投げ頭布 ~和歌山市東高松~

いまの国道42号線が、みごとな松並木の道だった江戸時代。近くにすむ牝狐が通行人に赤い頭布を投げては、茶店に誘い込むという、いたずらを繰り返したそうな。人々は警戒をするのだが、本物の茶店の女が、やはり頭布を投げるので見分けがつかない。

原見坂の美女 ~和歌山市鷹匠町~

平家物語の「耳なし芳一」に似た話が、このあたりに残されている。 紀州藩も浅野時代というから、16世紀末。 その藩士に渋谷文治郎という若侍がいた。ある年の夏、文治郎は「仙の前」という娘の亡霊に魅入られてしまったという。

父母状物語 ~和歌山市片岡町~

「父母に孝行に 法度を守り 謙(ヘりくだ)り 奢(おご)らずして…」 和歌山城に近い岡公園の東側、太田萬造さん宅の前に据えられた、高さ1.5メートル、幅3メートルばかりの大きな石碑に、こう刻られている。世にいう「父母状之碑」。紀州徳川家初代藩主、頼…

薬王寺の牛 ~和歌山市薬勝寺~

天平というから、いまから約1250年も昔のこと。ある日、この村の薬王寺の門前に、一頭のたくましい牡牛が現われた。

光恩寺の七不思議

(「紀州 民話の旅」番外編) 前項、前々項では「夜泣き石」、「名号と秤石」の伝承を紹介したが、和歌山市が昭和59年(1984)に発行した「和歌山市の民話(資料集・下)」には、これらの物語に「境内の松」、「鳴かずの蛙」、「片目の蛇」、「作兵衛鬼面の…

夜泣き石 ~和歌山市下三毛~

これも「小倉七不思議」のひとつ。 信誉が光恩寺を建てたとき、すぐ西の大橋村の神社にあった石をひとつ持ってきた。ところがその夜から、神社に残されたもうひとつの石が、すすり泣きをはじめた。そして信誉の夢に現われた女が「わたしは光恩寺へ行った石の…